照心語録 – 大切な項目と法則

「敬」について(「徳」の中で最も重要だと考えられている)

  • 人間が人間たる意義を求めるならば、先ず敬するという心を持つことである。人間が現実に留まらないで、限りなく高いもの、尊いもの、偉大なるものを求めてゆく、そこに生ずるのが「敬」という心である。この敬の心が発達してくると、必ず相対的に自分の低い現実を顧みてそれを恥ずる心が起こる。(安岡正篤)
  • 「敬」とはどういうことかと申しますと、それは自分を空しうして、相手のすべてを受け入れようとする態度とも言えましょう。・・自分より優れたものに対しても、相手の持っているすべてを受け入れて、自分の内容を豊富にしようとしないのは、その人の生命が強いからではなくて、逆にその生命が動脈硬化症に陥って、その弾力性と飛躍性とを失っている何よりの証拠です。(森信三)
  • 敬もって内に直くし、義もって外を方にす。敬義立てば徳弧ならず。(易経)
    「敬」はうやまうという意味ではなく、心を引き締める、慎重にすること。つつましくあることで心の内をまっすぐにし、正義にしたがうことで外に向かって行動する姿勢を正しくしていく。この敬と義を備えていれば、その徳は一つだけに止まるはずはない。自然に多くの徳が積み重なって大きく盛大になり、周囲にも良い影響を及ぼしていくものである。

【敬とは】(私見)
『論語』をはじめ先賢の教えを学ぶと、「敬」というものが、徳性の中でも非
常に大切なものであることがわかる。
そこで、この「敬」である。
先に示した、安岡正篤、森信三両先生そして「易経」から、「敬」とは「より以上を目指すこと」であり、「自分を空しうして、相手のすべてを受け入れようとする態度」であり、「心を引き締めること」であるということがわかる。
そこには、「慎むこと」や「恥じる気持ち」や「緊張感をもつこと」などがともなう。このことから、「敬」とは緊張感を持って心を引き締め、傲慢さをなくし謙虚になるための、「心のはたらき」であることがわかる。
60年近くの私の体験からも、「傲慢・不遜」「過信」「自惚れ」ほど醜いものはない。また、物事がうまくいかない原因をつきつめて考えると、「傲慢・不遜」「過信」「自惚れ」にあることに気づく。

以上から、「敬」とは
1、より以上をめざす(自分を磨く「道」を精進して歩む)
2、精神をたるまさないで、緊張感と慎みを持ち、恭しい態度で誠実に物事に取り組み、人に接すること
謙虚で恭しい態度=傲慢さをなくす
傲慢さとは=緊張感がなく、精神がたるみ、ゆるんでいる証拠
3、「敬とは上をうやまい、下を軽んじ侮らざるの義なり」(中江藤樹)
さて、「敬」には以上のような意味があるが、この敬を身につけると人を感動させ味方につけるだけでなく、天の応援ももらえるようである。
そこで、大切なのが、敬を身につける方法だ。
それには、まず、先賢の教え、真理、ものごとの原理原則を学ぶことである。
森信三先生は「教えの光に照らされるということは、つまりは自分の醜さが
分かりだすということです」と言っている。学ぶことで、未熟な自分に気づき、自分を慎み謙虚さが保てるのだ。さらに、森先生は次のように言っている。
「とにかくわれわれ凡人は、偉人の教えというものを、常にわが身から離さないようにしていないと、わが身の反省ということも、十分にはできがたいものであります」
つまり、学びっぱなしにしないで、先賢の教え、真理を伝える「座右の書」を持ち、繰り返しその教えの光で心を照らし続けることで、人として最も大切な心づかい思われる「敬」を保つことができるのである。
次に大切なことは、安岡先生も言っているように、目標(志)を持つことである。そのことで、現状に満足することなく、より以上を目指そうという向上心も芽生える。

・敬をもって所と作せ(書経)
自分の生き方の原理原則を敬に置きなさい。

・愛して敬せざるは、之れを獣畜するなり。(孟子)
可愛がっても尊敬しないのは、ペットを飼うのと同じという意味。

・上交して諂わず、下交してみだれず、それ機を知れるか。
物事の僅かな機微を察知する人は、上に対して恭順であるが諂わず、下に対しては親しいが馴れ合いにはならない。けじめをきちんとつけるのは、諂いや馴れ馴れしい関係が、後に良いことにならないことを知っているからである。

・えいを欠きて謙に益す(易経)
易経は謙虚、謙譲、謙遜を最高の徳とする。低く謙るものこそが、最も高みに至るといっている。天は満ちたもの(えい)を欠けさせ、欠けたもの(謙)を満ちるようにする。「鬼神は邪なし」という言葉があるが、鬼神は慢心を嫌い、謙る者に幸いを運ぶ。人は、たとえ成功者であっても高慢であれば嫌い、謙虚な人には惹かれて手を貸したいと思う。身分が低かろうと、謙虚に生きる人を誰も蔑みはしない。謙虚な態度を終わりまで貫いて崩さない。それが君子である。「謙」の徳は終わりを飾るものである。

・天には親なし、克く敬するを惟れ親しむ。(書経)
天はえこひいきをしないが、敬の心、慎みの心、恭しい気持ちを持つ人をひいきする。

・鬼神は常に享くるなし、克く誠なるに享く。(書経)
神はいつでも言う事を聞いてくれるものではないが、誠なるものの祈りは聞いてくれる。

・子日わく、門を出でては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に事えまつるが如くす。(論語)
先師が言われた。「一歩家を出て社会の人と交わるときには、大事なお客に会うかのようにし、人民を使うときには、大事なお祭りを行うかのようにする」

・孔子曰わく、君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮る。(論語)
先師が言われた。「君子には三つの畏れ敬うものがある。それは、天が人に与えた使命と徳の高い人格者と昔の聖人の述べた言葉である。これにたいして小人は、天命を知らないので、それを畏れない。また、徳の高い人格者にはなれなれしい態度で接し、昔の聖人の言葉を侮る」

言志四禄

  • 人はすべからく地道を守るべし。地道は敬に在り。順にして天に承くるのみ。
    人は地の道理というものを守らなくてはいけない。地道とは、人を敬い自らを慎むところにある。すなわち、人は従順に天に従っていくのみである。
  • 愛敬の二字は、交際の要道なり。
    愛と敬の二字は,人と交際するときの大切な道である。
    〈注〉中江藤樹は「愛はねんごろに親しむ意なり。敬は上をうやまい、下を軽んじ侮らざるの義なり」と言っている。
  • 人情の向背は、敬と慢とに在り。施報の道も亦忽せにすべきに非ず。恩怨はあるいは小事より起こる。慎むべし。
    人情が自分に向くか背くかは、自分がその人を敬しているか、侮っているかによって決まる。人に恵を施し、人の恩に報いることも、またいい加減にするべきではない。恩や怨みは得てして小さなことから起きてくるものであることに注意して、十分に慎まなければない。
  • 敬を持する者は火の如し。人をして畏れて之を親しむべからしむ。敬せざる者は水の如し。人をして狎れて之れに溺るべからしむ。
    常に慎み敬う態度でいる人は火のようなものである。人は畏れるけれども、親しむべき人として扱う。慎み敬うことをしない人は水のようなものである。馴れ親しみやすいけれども、人から馬鹿にされてしまう。
  • 小しく才有る者は、往往好みて人を軽侮し、人を嘲笑す。失徳というべし。侮りを受くる者は、徒に已まず、必ず憾みてこれをしんす。是れ我れ自らしんするなり。
    すこしばかり才がある者は、往々にして人を軽く見て、ばかにし、人をからかい笑う。これは徳義に外れているというしかない。侮蔑を受けた者は、それだけではすまず、必ず怨んでその人をそしる。こうなると、人を侮るのは自分をそしるのと同じである。
  • 人道は只だ是れ誠敬のみ。
    人の踏み行うべき道は、ただ誠と敬の二つだけである。

森信三

・真の謙遜とは、結局その人が、常に道と取り組み、真理を相手に生きているところから、おのずと身につくものと思うのであります。

・人間が傲慢に振舞うということは、畢竟するに、その人が調子に乗っているということであり、したがってそれは、一見いかにもえらそうにしていながら、実は人間のお目出たい何よりの証拠であります。つまり自分のそうした態度が、心ある人から見られて、いかに滑稽であるかということに気付かない愚かさであります。同時にまた卑屈ということは、一面からは、その人間のずるさの証拠とも言えましょう。何となれば、人間の卑屈の裏には、必ず功利打算の念が潜んでいると言ってもよいからです。

・自分よりも遥かに下位の者にも、敬意を失わざるにいたって、初めて人間も一人前となる。

・尊敬する人が無くなった時、その人の進歩は止まる。尊敬の対象が、年と共にはっきりして来るようでなければ、真の大成は期し難い。

・謙遜ということは、わが身を慎んで己を正しく保つということが、その根本精神をなすのであります。つまりいかなる相手に対しても、常に相手との正しい関係において、自己を取り失わぬということです。すなわち必要以上にでしゃばりもしなければ、同時にまた妙にヘコヘコもしないということであります。

・目下の人に対する心得の一つとして、目下の人だからといって、言葉遣いをぞんざいにしないようにということでしょう。これはうっかりすると気付きにくい点ですが、大体人間の人柄というものは、その人が目下の人に対する場合の態度、とくにその言葉遣いによって分かるものであります。

・人間が謙虚になるための、手近かな、そして着実な道は、まず紙屑をひろうことからでしょう。(私見:便所掃除が一番いいようだ)

船井幸雄

・好かれる人になる
人間というのは、人に好かれたら成功するようです。すべての人とはいいませんが、ほとんどの人に好かれる生き方をするべきです。
では、どんな人が好かれるのかいいますと、謙虚な人が好かれます。
それから、他人をほめ、認める人が好かれます。そして信用できる人が好かれます。謙虚な人はほとんど自慢をしません。人をほめ、認める人は、人の欠点を指摘したり、悪口を言ったりは、よほどのとき以外はしないものです。

・他人の欠点を指摘し、是正させようとすることは、なるべくしないほうがいい。こういうことは、悟りに近い高みに達したような、よほど成熟した人なら効果があるかもしれませんが、ふつうの人では効果がありません。どんな人でも、自分の意見を無下にされれば心を閉ざしてしまいます。そして、ひとたび心を閉ざされようものなら、どんなに説得しようにもなかなかうまくいかないばかりか、根にももたれてしまうことさえあります。一度聞き入れられてから改めて諭されたり、建設的な議論になったりすればいいのですが、頭ごなしに否定されれば、誰だって反感を感じます。ですから、誰の言葉でも、たとえ目下の人間の言葉であっても、いったんは受け止め、肯定することが、いい人間関係を築くためには大切です。

・人間誰しも、勉強すれば、ある程度の知識は得られます。その知識を仕事に生かせば、能力も上がることでしょう。すると周囲の評価も当然、高くなります。しかし、ここからが問題です。周囲に褒めそやされるようになってからも、なお、自らの未熟さを意識し、素直さと謙虚さを保つことができるか。ここが、本物になれるかどうかの分かれ道といっていいようです。…仮に人に意見をするようなときでも、己の未熟さをわきまえ、けっして驕ることなく、あくまでも教えを請う姿勢を忘れないことです。

徳についての参考

・人生で一番大切なのは徳性である。その徳性の中で最も人間に大事なものは二つある。その二つはいち早くお誕生過ぎにははっきりと表れる。その一つは明暗ということ。心を明るくするということで、心を明るく持つということがまずもって一番大事なのです。その次は清潔、不潔ということです。浄不浄ということです。(安岡正篤)

・子貢問うて曰く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべきもの有りや。子日わく、其れ恕か。(論語)
子貢が尋ねた。「一言で生涯行っていくべき大切なことがありましょうか」先師が答えられた。「それは恕かなあ」
※恕とは、「人を許すこと」や「思いやり」のことである。