照心語録 – 大切な項目と法則

人として目指す方向

1. 人物を創るための2つの修養法

『誠は天の道』(諸橋轍次 麗澤大学出版会)によると、儒教の一大目的は、「修己治人」にあり、それは「人として目指す方向」であるという。60才を間近に控えた父も、自分の経験から、まったくその通りだと思う。というのも、「修己治人」こそが、ほんとうの幸せを手にする道だと思うからである。
修己治人とは己を修めて人を治める、すなわち、学問修養によって自らの人格を高め、その結果、自然と人を感化でるようになることをいう。それは、とりもなおさず己の完成を説いたものである。
このことは、「君子はこれを己に求む 小人はこれを人に求む」とあるように『論語』にも説かれている。人に求めず、己に求めるとは、人を正さず己を正す、人を知るより己を知る、人に勝つより己に勝つことをいうのである。
ところで、己を完成させるとは、言い換えれば、己を小我から大我へ拡大させることでもある。己を虚しくする(謙虚の徳)と、己が大きくなる。
我が我がという考えではなく、先生や友人の忠告を聴くようになる。また、己を虚しくして人を容れると、人に自分の考えを聴いてもらいやすくなり、結果的に人を感化できるようになる。
では、どうすれば、己を完成させられるのか?
それには、「誠」「明」「健」の3つの徳を備えることであるという。つまり、「誠のある人間」「道理に明らかな明者」「それを正しく実行する健のある人間」になることである、というのだ。
誠を養うには、まず嘘を言わない、己を欺かないことである。己を欺かないとは自分に正直になることだが、それには本心(ほんとうの自分)を知らねばならない。この自分を知るということは、明の一面、すなわち自分の明徳を明らかにすることにもつながる。
問題はそのための修養法だ。
宇宙の理、すなわち「天理」は普遍的なもので、人間にも動物にも植物にも鉱物にも流れていて、この天理が人間に入ってくると「人性」となり、動物や植物や鉱物に入ると「物性」となると考えられている。
したがって天理=人性=物性となるのだが、この観点から、次の2つの修養の方法が考えられるという。

①、一つの学問や経験によって、宇宙間の万象を研究する。そうすれば、万象の中に流れている物性がわかる。物性は天理であり、人性も天理であるから、同時に人性がわかる。
=学問や経験によって物性すなわち万象に流れている天理を明らかにすることによって、人間の誠すなわち人性をつかむ方法。(格物)
②、静坐澄心その他の方法によって、まず己の心の中にある人性を見きわめる。人性がわかれば、人性と天理とは同源であり、天理は万象に配して物性となっているから、同時に天理がわかり物性がわかる。
=誠ということを徹底的にやると、おのずから物事の道理が明らかになってくる。これは人間の本性を主に考えたときのやり方。(致知)
少しむつかしい表現だが、簡単に言うと、人間の中にある良知(=人性=良心=天理)をきわめるためには、物の道理を知らなければならない(格物致知)、という意味だ。

さて、『誠は天の道』から2つの修養法を述べたが、私たちは物性を極める科学者でも、哲学者でもない。だから、先の2つの修養方法は、次のようになる。
①、先哲の教えによって天理、道理、物事の原理原則を学び実践する。
②、思索や瞑想によって、天理、道理、物事の原理原則を自ら感得し実践する。

この2つの方法によって、「成徳達材」すなわち学んで徳を成し材を達し、日常の生活で実践することによって、己を修め人を治めることができるようになるのだ。
なお、このことに関連する、興味深い教えがある。
桑田二郎(『絵で読む般若心経』下巻 ブックマン社)によると、瞑想によって、低我から真我に目覚めると、求める愛から与える愛、すなわち慈愛が湧きだすという。この慈愛とは『論語』で、人として最も大切な徳とされている「仁」である。『論語』を学んで、仁の心を持とうと頭で思っても、なかなか持てるものではないが、瞑想によって真我に目覚めると、「仁」すなわち慈愛が自然に身につくのだ。さらに、瞑想によって、本当の叡智も目覚めるといっている。
このように、瞑想によって人は魂を磨き、自ずから真実が湧きあがるように成長できるのである。いずれにせよ、先の2つの方法は、「学びて思わざれば即ちくらく、思うて学ばざれば即ちあやうし」と『論語』にあるように、車の両輪のごとく、どちらも大切である。

2. 幸せになるための最も重要なことは、人物を創ること

さて、この箴言集は、先哲の教えから、天理、道理、物事の原理原則をまとめたもので、いわば1の修養方法の教科書的なものである。また、この箴言集の次のところで、安岡正篤師の見解を示しているが、「人物」をつくるためには先哲の教えに学ぶことが必要で、そのためにはその教えを伝える「座右の書」を持つことだといっている。
したがって、この箴言集は自分を磨き修養するための教科書として、「人物」をつくるための「座右の書」として、常に傍らにおいて、何度も読みかえして欲しい。
そうすることで、まるで、光が己の心を照らすように、心の奥底に本来備わっている「良知」(良心=仏心)を刺激し、呼び覚ますことになると思う。そういう意味で、この箴言集を「照心語録」と名づけた。いずれにせよ、この「照心語録」(箴言集)は、単に知識を得るためのものではなく、人格を磨き向上させ、日常の生活に活かすためのものである。
父はもうすぐ還暦の60歳になろうとしているが、この歳になって、人として最も大切なこと、何を目指して生きるのかという、生きる方向性に気がついた。
それは自分を高めることであり、今、説明してきた「修己治人」である。
『四書五経』の中の『大学』は、国を治めるのも、会社を経営するのも、立派な仕事をするのも、家庭円満に子弟を教育するのも、その任にあたる個々人が自分自身を磨き、すぐれた人物にならない限り、ものごとはうまくいかない、と言っている。まったくその通りだと思う。
人間が出来てくれば、必ず、地位や名誉やお金もついてくる。
地位や名誉やお金を求めることは、決して悪いことではないが、根本に自分を高め、徳を磨くことを置いて欲しい。それが「本当の幸せ」になる方法である。
この「照心語録」を座右の書にして、少しずつでも実践すれば、父の歳には、必ず、立派な人物になって幸せに満たされていると思う。楽しみにしている。
では次に、「人物とは」ということについて、安岡正篤師の見解を示す。

人物とは(安岡教学から)
(『人物を創る』人間学講話「大学」「小学」安岡正篤著 プレジデント社出版の「あとがき」:安岡教学の精髄「人物学」豊田良平より)

世間では、よく「その人は仕事の出来る人だ」という言い方をします。「仕事の出来る人」という評価を受けると、周囲から支持され、仕事がやりやすくなります。それにつれて仕事の成果はますます上がり、やっている人の人生は、いっそう楽しいものになってゆきます。
人間誰しもこうありたいところですが、そうなるためには、その人の「人物」が出来なければならない。少々の才能があっても、すぐにへこたれたり、自分のことだけを大切に考えるような人間には、長続きする大きな仕事はできない。 
仕事ができなければ、人生を喜び楽しむこともできません。
楽しまずして何の人生か、です。だから生きていることを喜び、人生を楽しむためには、いわゆる人間が出来なければなりません。「人間が出来る」ためには、人間の在るべき姿を求め、その目標に向かって修養、努力しなければならない。そのための指針となる学問が「人物学」であります。…(略)
人物学(『読経世瑣言』安岡正篤著 より抜粋)
(『大学』『小学』『中庸』『論語』『孟子』など中国古典を基礎とする人物学的・陽明学的エッセンスと言えるもの by豊田良平)
「人物」とはどういうことを言うのであろうか。
第一に、人物なるものの内容として根本的なものはなにかと言えば、それは
我々の気魄であり、活力であり、性命力(生の字より性のほうがよい。肉体のみでなく、霊を持っているという意味で性命という)に富んでいることであります。肉体・精神共に根本において活発で燃えるような迫力を持っていることが大切です。万有一切、光も、熱も、電気も、磁気も、すべてがエネルギーの活動であり、変化であります。このエネルギーが旺盛でなければ森羅万象もない。我々も根本において性命力が旺盛で、活力・気魄が旺盛でなければ、善も悪ない。是も非もない。活力気魄を旺盛にすることが一番大事であります。
この気魄・活力即ち元気というものは客気であってはならない。客気というも
のは、お客さんのようにたまたまフラリとやって来て、すぐにいなくなるもので、客気はあてにならぬ。そんなものは本当の元気ではない。
「真の元気」というものは、一般的には「志気」といいます。今日いう理想精神であります。一体に元気、即ち我々の気魄活力は創造力でありますから、生みの力、産霊の力であります。そこで、これは必ず理想を生んでくる。元気が旺盛であるときには必ず理想がある。理想は空想とは違う。創造力のないのは空想であります。理想のことを古来、「志」といいますから、これを「志気」といいます。元気は客気ではなくて志気でなければならない。理想を持った元気でなければならない。だから性命力の一番純真、旺盛なる少年時代は誰でも理想家であります。
このように気魄、活力、元気というものは、必ず理想を生むものであるから、人間は出来るだけ理想精神が旺盛でなければなりません。
人物たることの第二の条件は、「理想を持つ」ことであります。
理想を持つと、その理想に照らして、現実に対する反省・批判というものが起こってくる。即ち「見識」というものが生ずるのであります。この見識はまた人物たることの大事な条件です。「見識」というものは、「知識」とは違います。「知識」を得ることは簡単ですが、「見識」というものは、性命より生ずる理想を追求して、初めて得られるものです。即ち理想に照らして、現実に複雑な経験を断行するものであります。知識などとは比較にならぬものである。人生に大事なものは知識より見識であります。
我々はいくら知識があり、学問があっても、日常生活の中の些細な問題さえ決定できぬことが多い。偉い学者といわれる人が、つまらぬ一瑣事にとらわれるということは、つまり知識と見識が違うからです。したがって見識というものは一つの決断力であり、これは人生において直ちに行為となって現れなければならぬ。決断は同時に行為でなければならぬ。したがって見識というものは、実践的でなければならぬ。
ところが見識が実践的になるには、またここに一つの勇気がいるわけである。この実践的勇気を称して、「胆力」といいます。だから見識というものは胆力でなければならぬのであります。見識は進んでいけば「胆識」でなければならぬ。この見識を胆識にまで、つまり「胆力のある見識」にするには理想というものが一貫不変でなければならぬ。いわゆる志気が、本当の元気(活力・気迫)から発する本物の志気になればなるほど、見識は胆識になってくる。
この理想の一貫不変性を称して「気節」とか「節操」とか「信」というのであります。そうすると、我々のささやかな生活、刹那的生活が、理想という遠大なものに結ばれることによって、それだけ大きさを生んでくるわけです。
人間生活、自己自身に大きさを生んでくる。これを称して「器」とか「度」とか「量」とかいいます。これを結んで「度量」とか「器量」ともいいます。
「あの人は器量人である」「あの人は度量がある」ということの本当の意味は、いかに遠大なる理想を持ち、いかに見識・気節があるかということであります。 
器量が出てくると、それだけ理想と現実が練磨されてくるから、ますます深い見識が出てくる。知恵が出来てくる。つまり人間の深さ〈造詣〉というものが生じ、それが洗練されてくるものですから、そこに「潤い」あるいは「趣」といった情操がにじみ出てくるのです。
そのようにして人間が本当に生きてくるにしたがって、天地の法則の通り、人間の性命が躍動してくるから、いわゆるリズミカルになって、「風韻」というものが生じてくる。「あの人は風韻がある、風格がある」というのは、その人独特の一種の芸術的存在になってくることであります。
このように、元気というものから志気となり、胆識となり、気節となり、器量となり、人間の造詣、薀蓄となり、それが独特の情操風格を帯びて来る。
これらが人物であることの根本問題中の根本問題であります。こういうものを備えてこなければ、人物とはいえない。人物を練る、養うということは、こういうことを練ることです。
人物が出来てくると、たとえその人間の目鼻立ちがどんなに悪くとも、その悪い目鼻立ちが、そのまま何とも言えぬ美になってきて、よくなってくるものです。それはなまじ、のっぺりした美男子型の軽薄な顔とは、天地雲泥の相違になってくる。修養というものは、その人の持っている性格の欠点をそのまま美化し善化することであります。短所をそのまま長所にすることが修養の妙味であります。人物を養わないでいると、せっかくの長所も短所になってしまう。 
たとえば目鼻立ちをよく生んでもらっても、その目鼻立ちがその人間の罪悪になり、短所になる。逆に人物を修めると、目鼻立ちが悪いという欠点がそのままによくなる。これが本当の創造であり、造化であります。世の中には、長所が短所の人間があり、短所が長所の人間もある。この短所が長所の人間ほど偉大なる人物であります。

人物が養われる方法
艱難辛苦、喜怒哀楽を勇敢に体験せよ
それでは、どうすれば人物が養われるのであろうか。人物学を修めて人物を鍛錬する、これも言えば限りにないことでありますが、原理は極めて簡単であると思います。
人物学を修める上において、もっとも大事な秘訣が二つあります。
それは、まず第一に古今の優れた人物に学ぶということであります。つまり、できるだけ我々と同時代の優れた人物に親炙し、時と所を異にして親炙することができなければ、古人に学ぶのである。人物の研究というものは、抽象的な思想学問だけやっておっては遂げ得られないものです。どうしても、具体的に生きた人物を追求するか、できるだけそういう偉大なる人物の面目を伝え、魂をこめておる文献に接することであります。その点、古典というものは、歴史のふるいにかかっておりますから、特に力があります。
そこで我々は優れた人物に学ぶと共に、優れた書物を読まなければならぬ。優れた書物とは、そういう優れた人物の魂を伝え、面目躍如とさせておるような書物であります。
つまり私淑する人物を持ち、愛読書(座右の書)を持つということが、人物学を修める根本的、絶対的条件であります。雑然たる編集物、空虚な概念と論理との抽象的思想文章に親しんでおっても、人物の出来るわけはない。
その次に、人物学に伴う実践、すなわち人物修練の根本的条件は怯めず、臆せず、勇敢に、そして己を空しうして、あらゆる人生の経験を嘗め尽くすことであります。人生の艱難辛苦、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰を勇敢に体験することです。その体験の中にその信念を生かしていって、初めて知行合一的に自己人物を練ることが出来るのであります。
(以下略)
〈安岡先生は、人物を修めるための平生の心がけとして、次の三つを挙げております(同書の「忙人の身心摂養法」より)〉
第一に、心中常に「喜神」を含むこと。神とは深く根本的に指して言った心
のことで、どんなに苦しいことに逢っても、心のどこか奥のほうに喜びを持つということです。実例で言えば、人から謗られたり、あられもないことを言われると、憤るのが人情であるが、たとえ怒っても、その心のどこか奥に「イヤこういうことも、実は自分を反省し、練磨する所縁になる。そこで自分という人間が出来てゆくのだ。結構、ありがたいことだ」と思うことです。人の毀誉褒貶なども、虚心坦懐に接すれば案外面白いことで、これが「喜神」です。
第二は、心中絶えず感謝の念を含むこと。一椀の飯を食っても有り難い、無事に年を過ごしても有り難い。何かにつけて感謝感恩の気持ちを持つことであります。
第三に、常に陰徳を志すこと。絶えず人知れず善いことをしてゆこうと志すことであります。

「人物学」覚え書き
以上の安岡先生の「人物学」によって、私自身、実生活上でどれほど助けられたかわかりません。昭和十七年にこの書にめぐりあって以来、四十余年、絶えず身読してまいりましたが、人生の現実にそれをどう応用すべきか、いろいろ苦心もし、工夫もしました。そうした私自身の体験から得た、私なりの「人物学覚え書き」をご参考までに略記いたします。

〔気力・活力を旺盛にするにはどうすればよいか〕
気力・気魄は宇宙の大生命が人間に乗り移ったものであり、人間にとってこれが最も重要です。これを身につけるには、理想精神を旺盛にして、志、つまり目標を持つことです。孟子が言っているように「志は気の帥なり」〈志は元気・気力の本である〉です。志を持たない者は大事を成就できません。
ただし目標を定める場合、その期限を切ることが重要です。自分は若いからなんとかなる、と思っていては、歳月人を待たず、でタイミングを失してしまう。
逆に、五十歳も過ぎると、たいていの人が、なるようにしかならないと諦めてしまい、今さら志など・・・と言うが、人間には無限の可能性があり、「今さら」こそが人生です。自分を見限ってはならないと思います。第一、志・目標を持たない人は早く老いぼれてしまいます。

〔見識と胆識を養うにはどうすればよいか〕
知識よりも見識が重要であるといっても、知識がなければ、無知から見識・判断力は生まれない。同じく見識がなければ、胆識も出てこない。「知識・見識・胆識」は一対のものとして考えなければならない。また「真の智は物自体から発する光でなくてはならない。自我の深層から、潜在意識から発声する自覚でなければならない」(安岡先生『知識と悟道』)。すなわち独創的でなければならない、ということである。
「胆識」は抵抗、障害を排除して目的を達成する実行力となります。ただ、がむしゃらに実行すればよいというわけではなく、抵抗、障害を無理なく乗り越えてこそ本物というもの。そのためには知識・見識をフルに働かせなければならないが、実際面では、人間関係の良し悪しが事の成否に大きく関わっている。 
だから仕事を人一倍やっていこうと思えば、人間関係をよくしなければならない。

〔見識はあっても気の弱い人間、度胸のない人間はどうすればよいか〕
周囲から信頼されるよう特に努めることです。人間関係のもっとも重要な核がこの「信頼」であり、信頼されれば人的障害はなくなります。もう一つ、胆力を養うにはなにより場数を踏んでトレーニングを積むことです。
私はつねづね「天地と我と同根、万物我と一体、自他一の天下無敵」をモットーにしております。

〔器量は生まれつきなのか〕
器の大きさは、その志〈理想〉に比例するものです。普通の人でも大志に向かって努力すれば、それに応じて器量が大きくなってゆきます。

〔日常「喜神を含む」ための心がまえは何か〕
まず、このすばらしい人生を「生かされて生き」皆と共に生活できる-これを喜ぶことが大事です。こういうことを心底から感ずることが出来れば、おのずから風貌が変わってきます。実際、喜びながら艱難辛苦に向かい、喜びながら苦労する-こういうことも喜神を含んでおると平気でやれます。人生に無駄なし。万事に感謝し、人に喜びを与えることが最高です。
以上を総括して、人生は信頼〈人間関係〉と実行の問題であり、我々の日々は、情熱と独創と実行の継続でなければならない、と私は考えております。安岡先生からいくら学んでも「実行するは我にあり」で、実行できなければ何にもなりません。
「人物学」を学び実践する目的は何かと言えば、それは冒頭にお話したように「人生を楽しみ、喜ぶ」ためです。それは単に、仕事がうまくいくから、幸福になるから、ということのためだけではありません。人間が大きくなり人物が出来てくるにつれて、何よりも自身の心に大きな自由(余裕もその一部)が生まれます。これは何事にも代えがたい境地です。
喜神を含んで、日々周辺の人々に喜びを与えながら人物学を実践してゆくと、それが自ずから外に現れて否応なく人の認識に上ります。この時に人物というものが決まるのであります。「あれは人物である」「あれは人物が出来ておる」というようなことが自然に言われるようになります。
人物が出来るということは、すばらしいことであります。
(『人物を創る』人間学講話「大学」「小学」安岡正篤著 プレジデント社出版の「あとがき」:安岡教学の精髄「人物学」豊田良平より)

参考
人物とは
・深沈厚重なるは、是れ第一等の資質。磊落豪雄なるは、是れ第二等の資質。聡明才弁なるは、是れ第三等の資質。
「どっしりと深く沈潜して厚み・重みがあるというのは、これは人間として第一等の資質である。大きな石ころがごろごろしておるように、線が太く物事にこだわらず、器量のあるというのは、これは第二等の資質である。頭が良くて才があり、弁が立つというのは、これは第三等の資質である」

徳とは
徳とは均整のとれた精神のあり方を指し、それは天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得され、善き人間の特質となる。徳を備えた人間は他の人間からの信頼や尊敬を獲得しながら、人間関係の構築や組織の運営を進めることができる。徳は人間性を構成する多様な精神要素から成り立っており、気品、意志、温情、理性、忠誠、勇気、名誉、誠実、自信、謙虚、健康、楽天主義などが個々の徳目と位置づけることができる。

ちなみに、儒教的な徳は人間の道徳的卓越性を表し、具体的には仁・義・礼・智・信の五徳や孝・悌(てい)・忠の実践として表される。
※仁:「他人に対する親愛の情、優しさ」(孔子が中心にすえた倫理規定、人間関係の基本)
※義:正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念と考えられている。
※礼:様々な行事のなかで規定されている動作や言動、服装や道具などの総称であるが、人間関係を円滑にすすめ社会秩序を維持するための道徳的な規範をも意味する。
※智:知恵(フリー百科事典ウィキペディアには説明がない)
※信:友情に厚く、人をあざむかないこと、誠実なことをいう。
※孝:親に服従し、先祖の祭祀に奉祀すること。孔子は親を敬し、親の心を安んじ、礼に従って奉養祭祀すべきことを説いた。
※悌:兄や年長者によく従うことをいう。孝悌と併用されることもあり、『論語』には「孝悌なるものは、それ仁の本なるか」とあり、仁の根本とされる。
(フリー百科事典 ウィキペディアより)
安岡師は次のように、徳は本質的要素で、知能や技術などの才能は付属的な要
素であるとし、徳を才能より上位に位置づけている。(全く同感)

「人間には、これあるによって初めて人間であるという本質的な要素と、必ずしもそうでない付属的要素との二つがある。古神道でいう、心が明るい、清い、汚れがない、人を愛する、人を助ける、人に報いる、精進する、忍耐する等々の徳性こそが本質だ。これあるによって初めて人間となり得るのである。これに対して、智能や技術というものはあるにこしたことはない。確かに大事なものだけれども、それは特別の例外を除けば程度の差というべき付属的要素である。それよりもさらに大切なのは、良い習慣、習性を持つことである」