照心語録 – 大切な項目と法則

8、試練について

船井幸雄

  • 身に起きた試練は、起こるべきして起こったもの。それが人生の糧になる。
    人は重病になったり仕事で大失敗をしたり、思わぬ不幸に見舞われたりすると、なぜ自分だけが、などと拗ねてしまいます。気持ちはわかりますが、自分だけが苦しんでいると思ったら大間違いであるといわねばなりません。
    試練は、誰にでも与えられているものなのです。多くの人たちと一握りの成功者との違いは、それをどう受け止めるかの違いです。もし、不幸や苦労のどん底にいるとしても、それは自分に与えられた、乗り越えるべき試練だと思うことです。そうした試練を乗り越えるごとに、人は成長し、他人の悲しみもわかるようになっていきます。人間の幅や厚みといったものは、いくつもの試練をくぐり抜けながらできあがっていくもののようです。試練は人間の成長や糧となってくれるのです。
  • 大きな苦労を背負う人は、それだけ大きな使命をもっている。
  • つらい経験がプラス発想の源
    人間は、非常に悲しいことや、死にたくなるような目にあったら、あったことの半分くらいは、プラス発想ができるようになります。それしか、そのときの自分の気持ちを助けられないからです。それがきっかけで、「プラス発想をしなければ」ということに気がつく、ということです。
    そのように考えたら楽になる。プラス発想をするようになる、ということです。死ぬほどつらい経験をすると、人は、いろいろ考えます。生や死について考えたり、この世の意味とかを、必死で学ぼうとする、そうすれば、いろいろなことがわかってくるのです。
森信三

  • 逆境は神の恩寵的試練なり。
  • われわれは苦労することによって、自分の「おめでたさ」を削り取ってもらうんです。現実の世界は決しておめでたくはないのです。
  • 焼き芋は、火が通らないとふっくり焼けない。人間も苦労しないとあくが抜けません。
  • そもそも精神というものは、それが真に伸びるためには、必ずや何かの意味において、一種の否定を通らねばなりません。すなわち、この否定という浄化作用、すなわち自己反省とうものを通らずに伸びたのは、精神としては真に伸びたのではなくて、かえって度のすぎたものとして、結局、欠点になるわけです。
  • 金の苦労を知らない人は、その人柄がいかに良くても、どこか喰い足りぬところがある。人の苦しみの察しがつかぬからである。
  • 下坐行とは、自分よりも一段と低い位置に身を置くことです。言い換えれば、その人の真の値打ちよりも、二、三段下がった位置に身を置いて、しかもそれが「行」と言われる以上、いわゆる落伍者というのではなくて、その地位に安んじて、わが身の修養に励むことを言うのです。そしてそれによって、自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。すなわち、身はその人の実力以下の地位にありながら、これに対して不平不満の色を人に示さず、真面目にその仕事に精励する態度を言うわけです。
  • 人間は憂えなければ人物が出来ない。何の心配もなく平々凡々幸福に暮らしたのでは、優という文字の真義からくる「優秀」とはいい難い。憂患を体験し、悩み抜いてきて初めて、人物も余裕も出来てくる。(安岡正篤)
  • 天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓えせしめ、其の身を空乏にし、行うこと其の為さんとする所に払乱せしむ。(孟子)
    天がある人に何かをやらせようとするとき、まずその志を苦しめことが起こる。肉体を消耗させることが起こる。お腹が空くことが起こる。貧乏になることが起こる。そして、一所懸命やろうとすることがうまくいかないことがある。
  • およそ遭うところの艱難変故、屈辱讒謗、払逆の事は、皆天の吾が才を老せしむる所以にして、シレイ切磋の他にあらざるはなし。(言志四禄)
    我々が遭遇する苦労や変事、恥ずかしい思いやひどい悪口、思い通りにならないことは、すべて天が人を熟成させるための手段であって、一つとして人間を磨き上げるために役立たないものはない。したがって、道に志す人は、こうした出来事に出遭ったならば、いかに対処しようかと考えるべきである。むやみにこれから逃れようとしてはいけない。