まえがき
幸せになるための根本は「成徳達材」、すなわち「学んで徳を磨き、世のため人のために役立つ人材となる」ことにあると、50歳を超えて改めて思い知らされた。富や名誉は、自分をつくれば、自然についてくる。
ところで、ここにいう「学ぶ」とは、「人としてのあるべき姿」や「生きるうえでの原理原則」などを学ぶことをいっている。ところが、戦後の教育を受けた私たちは、残念ながら、人として最も大切なことを学校では学んでいない。
戦前、特に江戸時代の武士は、『四書五経』中心に「人としてのあるべき姿」や「生きるうえでの原理原則」を、子どもの頃から徹底的に学ばされ、それが、武士や戦前の知識人に、立派な人格者が多かった理由だと思う。
ちなみに『四書五経』とは、儒教の経書の中で特に重要とされた四書と五経の総称で、四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』である。
それはともかく、私たちは徳を磨くための勉強をしていない。そこで、その教科書として箴言集をつくった。したがって、この箴言集は知識を得るためのものではなく、日々、己の心を照らし、己の未熟さを自覚すると同時に、少しでも日常の生活で実践し活かすための、いわば、照心語録でもある。
ところで、徳を身につけ人格を磨くことと同時に、もう一つ大切なことがある。
それは、自分の天分(素質、能力、いいところ)を知りそれを磨くことである。言い換えれば、「本当の自分を知り、本当の自分をつくる」ことである。
安岡正篤師は次のように言っている。
「本当の自分を知り、本当の自分をつくる人であって、初めて人を知ることが出来る、人をつくることができる。国を知り、国をつくることが出来る。世界を知り、世界をつくることが出来る」
まったくその通りだと思う。では、「本当の自分」とは?
心理学者のフロイトは、人は無意識(潜在意識)の領域に大きな影響を受けていることに気がついた。フロイトの研究をさらにおし進めたユングは、意識の中心に存在するものを「自我」と呼び、意識(顕在意識)と無意識(潜在意識)を含む、心の全体に影響を及ぼしている核になるものが存在するといい、それを「自己」と呼んだ。
仏教思想においては、人の無意識には、未那識と阿頼耶識と阿摩羅識が存在し、この阿摩羅識には、真・善・美を追求する仏性が存在すると考えられている。また、中国古典では、人の心の奥底には、天命(天から与えられた使命)が刻まれていると考えられている。
したがって、「本当の自分」とは、人の心の奥深くに存在している「自己」のことであり、「本当の自分をつくる」とは、心理学では「自己実現」、すなわち、「自己(本当の自分)を実現する」ことであり、仏教を初めとする東洋思想では、仏性と天命に目覚め、天命を果たすことにある。
では、「本当の自分(自己)」に目覚めるにはどうすればよいのか?
その最も効果的な方法が、「瞑想」である。
「瞑想」は、自己に目覚めるだけでなく、生理学者ロバート・キース・ウォレスの研究によると、血圧の正常化、不安の緩和、免疫機能の向上といった、身体や心の健康に非常に有益であることも明らかになった。
カリフォルニアア大学のポール・エクマンが行った仏教僧を対象とした実験では、脳にも大きな影響を及ぼしていることが分かった。
それは、否定的な感情を生み出す脳の神経回路がしぼみ、おもいやりや幸福感を生み出す神経回路が大きくなるのである。(『脳にいいことだけをやりなさい』マーシー・シャシモフ著 茂木健一郎訳 三笠書房より)
幕末の偉人が「禅」の瞑想で腹を練ったように、「腹づくり」にも効果がある。
「腹」について少し説明する。
安岡氏は、「知識」と「見識」と「胆識」と言ったが、「見識」とは「知識」を応用した正しい判断で、「胆識」とは、見識をもとに、物事を実行することをいう。この実行力を支えるのが「腹」である。目指すべきは「頭」の人でなく、「腹」の人である。
それでは、次に、瞑想の方法を説明する。
足は正座が一番いいが、正座で長時間の瞑想ができない場合は「あぐら」でもいい。大切なポイントは、背筋を伸ばし腰骨に力をいれ、肩の力を抜くことである。
呼吸は脈拍を基準に9回数えて口から吐き、9回数えて鼻から吸う。
呼吸法につても、多くの実践者の本で研究したが、逆式呼吸(丹田呼吸)がいいことがわかった。
逆式呼吸とは、腹式呼吸の逆で、吸うときに肛門を締めて腹をへこまし、吐くときに、呼気が腹にいくようにイメージしながら、腹をふくらます呼吸である。
心理学を学んで分かったことだが、内臓の働きなどを司っている、自律神経は、意識で調節することができないが、深呼吸は自律神経に働きかけることができる。したがって、唯一、自律神経を自分で調節できるのが呼吸法なのだ。
プロスポーツ選手やオリンピック選手などで、極度な緊張状態をリラクスさせる方法として、深呼吸が効果的であることが実証されている。
願望実現のイメージトレーニングにも、呼吸法が有効であることが実証されている。
具体的には、丹田呼吸法の瞑想後(脳波がベーター波からアルファー波になる)、実現したいことを映像にしてイメージすることで願望が実現しやすくなるようである。これは、深い呼吸が潜在意識の扉を開け、映像が潜在意識に刻まれやすくなり、潜在意識に刻まれたイメ-ジを実現する方向に意識も調節されるからである。
ただ、意識で考えた願望が、「本当の自分(自己)」が望んでいない場合、うまく機能しない。ただし、意識(自我)の思いと無意識(自己)の思いが一致すれば、必ず、その思いは実現すると思う。何故なら、それは、「天命」すなわち天から与えられた自分固有の「使命」を果たすことになるからである。
ところで、自己の思い、すなわち「天命」に気づくには、まず、目の前の仕事に全力投球することからはじまると思う。その中から、自分に与えられた長所や特徴、役割、使命といったものに気づいてくるからである。
瞑想と呼吸法について述べたが、それは、いわば無意識の「自己」からの呼びかけに耳を傾け、心の内から目覚めることであり、最も根本的なことである。しかし、それだけでは不十分である。
先に述べたように、人格を磨き、徳を高めるには、人格づくり、人間づくりの原理原則を知る必要がある。先に言ったが、その教科書として「照心語録」をつくったのである。
私はこの「照心語録」を「座右の銘」とし、日々の精進に励むことにした。
ここにある先哲の教えは、私のこれまでの60年近くの体験から、「なるほど」と感じたものばかりで、もっと若いときに学んでおけばよかったと思えるものばかりである。
人は意識しないと、ついつい、悪い考えや行動に流されてしまう。
釈迦は、精進をすすめると共に「放逸」を厳しく戒められた。「放逸」とは、〈かってきままこと・なおざり・なまける・かるはずみ〉や〈やりっぱなし・善を修しない心の働き〉などの意味である。そこで、「放逸せず、自己を完成せよ」と戒めた。安岡正篤氏は、「放逸と放縦とは、生命の害毒であり、敵である」と言っている。日々の仕事や生活の中で、先哲の教えを学び、意識し実践し習慣にして、人格を磨きあげていって欲しい。
これは、瞑想や呼吸法による、心の内からの魂自身の磨きではなく、意識による心の外側からの御魂磨きだが、どちらも、人格を磨くには重要で有効で必要なことである。また、自分を変えるのは難しいことだが、行動を変えることはそれほど難しいことではない。
例えば、人から何か言われたら必ず言い返してしまい、それによって、人から受け入れてもらえないと気づいたら、人から何か言われたときは、まず、じっくり聴いてから、自分の考えを言うように行動を変えればいいわけだ。
これは、心理学の行動療法の応用である。
私が学んでいる心理学の学校の講師で、子どものころ、親からひどい虐待を
受けたせいで非常に反抗心が強く、先ほどいったような行動をといっていたことに気づき、必死になって行動を変え、立派な講師になった人がいる。
ところで、この「照心語録」は自分の未熟さに気付き、高い理想に日々努力し、一歩でも近づくためのもので、決して、未熟な「現実の自分」、「あるがままの自分」を責める道具にしてはいけない。
過去の、あるいは今の自分が未熟だとしても、否定しないで、未熟な自分、「あるがままの自分」に気付き、認め、受け入れることから、御魂磨きがはじまる。
このことは重要なことなので、少し長くなるが、『孤独であるためのレッスン』(諸富祥彦 NHKブックス)を次に引用してそのことを説明する。
カウンセリングとは、決して「ほかの誰かに助けてもらう」ことではありません。カウンセリングを受けている人も、あくまで、「自分で」自分の問題を解決するのです。カウンセリングとは、その人が、その人自身で、自分らしいやり方で問題に取り組んでいく、そのプロセスを支えることなのです。
悩める人の多くは、自分の気持ちがわからなくなってしまっています。自分の気持ちが見えなくなってしまっている、と言ってもいいでしょう。
カウンセリングとは、このような人が、自分の心の声に耳を傾けることによって自分を取り戻していく。自分自身になっていく。そのプロセスのことを言うのです。こう言っても、まだわからない、という方もおられるでしょう。
カウンセリングの世界で神様のような扱いを受けているカール・ロジャースという人がいます。まず、この人自身の言葉に耳を傾けてみましょう。
ロジャースの次の言葉は、カウンセリングを受けた人の体験のエッセンスを実に見事に表しているように思います。
「私が自分自身を受け入れて、自分自身にやさしく耳を傾けることができるとき、そして自分自身になることができるとき、私はよりよく生きることができるようです。・・・言い換えると、私が自分に、あるがままの自分でいさせてあげることができるとき、私は、よりよく生きることができるのです」
カウンセリングを受けにくる方(一般的にクライエントと呼ばれる)は、自分を受け入れることができずにいます。
たとえば、「みんなの前でパリッとしている自分はオーケーだけど、部屋に帰ってグズグズ悩んでいる私はキライ」「俺は、どうして、女の子の前に行くと素直になれないんだろう。特に好きな子の前にいくと、よけいかっこう悪く振る舞ってしまう・・・」
こんなふうに、自分の一部は受け入れることができるけれど、別の自分は受け入れることができない。でも、それはすごく無理なことなので、自然と苦しくなってしまう。そうした葛藤から、カウンセリングを受けにくるのです。
そしてカウンセリングを受ける過程で、それまで自分で否定していた自分の一部も受け入れることができるようになっていく。いいとか悪い、肯定する否定するのではなく、その部分も、どうしようもなく自分自身の一部であることを認め、受け入れていく。それにより、周囲の人の目や世間体ばかり気にして取り繕っていた「見せかけの自分」から離れて、「より深く、自分自身に根ざした自分」へと変わっていく。
成功するカウンセリングの中では、しばしば、こうした「自己変容のプロセス」、「表面的な、人の目を気にした自分」から「より深く、自分自身の心の声に根ざした自分」へと変化していくプロセスが生じるのです。
ロジャースは、このあたりのことを次のようにさらにストレートに表現しています。
まずそれは、次のように否定形で表現されます。
①「偽りの仮面」を脱いで、「あるがままの自分」になっていく
②「こうあるべき」とか「こうするべき」といった「べき」から自由になっていく
③ひたすら、他の人の期待を満たし続けることをやめる。
④他の人を喜ばすために、自分を型にはめるのをやめる
その後、肯定形で、次のように表現されています。
自分で自分の進む方向を決めるようになる。
結果ではなく、プロセスそのものを生きるようになる
変化に伴う複雑さを生きるようになってくる
自分自身の経験に開かれ、自分が今、何を感じているかに気づくようになっていく
自分のことをもっと信頼するようになっていく
他の人をもっと受け入れるようになっていく
より自分らしい、あるがままの自分になる人はこうした方向に向かっていく
とロジャースは言います。そのとき人は、他者からの期待や「こうあるべき」という思い込み、そして仮面をつけていた「偽りの自分」から離れていき、その時々の自分の気持ちに従いながらそのプロセスを生きるようになっていく、というわけです。
とはいっても、これに反論したくなる方も、おられるでしょう。
「あるがまま」の自分になるだなんて、とんでもない。自分の本心は、きわめて強欲で、自己中心で、醜い欲望の塊であることは自分自身でよくわかっている。そんな自分の暗い衝動、心の闇を、自分自身であると認めるなんて、とんでもない。そんな恐ろしいこと、できっこない。もしできたとしても、私は、この社会から葬り去られることが確実だ、と。
しかし、ロジャースはこう言います。人は、現実の、あるがままの自分を心の底から認め受け入れたとき、はじめて、意味のある変化が生じてくる、と。
「面白い逆説なのですが、私が自分のあるがままを受け入れることができたとき、私は変わっていくのです。私たちは、自分の現実の、そのあるがままの姿を十分に受け入れることができるまでは、決して変わることはできません。今の自分から変わることはできないのです。これは、私自身の経験と、クライエントの両方から学んだことです」
長い引用になったが、ここには、非常に重要なことが書かれている。
つまり、「あるがままの自分」を受け入れることが、心理的な変容や成長にとって最も大切なことなのである。したがって、たとえ、間違いを犯した自分、自分の理想とは違う自分であっても、否定しないで受け入れることが大切で、自分を受け入れることができて、はじめて変わることができ、成長することができるのである。
「自らを知りて自らを示さず、自らを愛して自らを尊ばず」と老子(古代の中国の聖人)も言っているが、自分を知ること、そして自分を受け入れ、承認して愛することがとても大切なのだ。他人に自分を「ひけらかし」、自慢し、高慢に振る舞うのは、自分を知らず受け入れず愛していない、言い換えれば、自分で自分を承認していないからおこる反動形成なのである。自分で自分を承認していないと、他人の承認を得なければならず、そのために、自分を「ひけらかし」、自慢し、高慢に振る舞うのである。
自分に自信のある人ほど謙虚になるとはこのことだ。
自分だけでなく、他人を承認すると、コミュニケーションが円満なものになる。
相手の言っていることが明らかに間違いで、自分の価値観と違っても、「それは間違いだ」と言って相手を否定しないで、まず、相手の思っていること、考えていることを、自分の価値観を横に置いて、受け止め、しっかりと聴くこと(アクティブ・リスニング)が大切である。
相手の言っていることが、一般的に考えて、明らかに間違っていると思っても、相手がそう感じている、そう思っているのは事実であり、相手の思いや考えを受け入れることが大切なのだ。
その上で、「なるほど、君はそのように考えているのですね」と言って、自分の考えを述べればいい。頭ごなしに、否定してはいけない。
実は、自分への接し方は、そのまま他人への接し方にもつながるので、まず、自分を承認し大事にするように心がけることが大切なのだ。自分を承認し大事にすると、自然と他人も承認し大事にするようになる。その結果、他人と「和」を保つことができ、いい人間関係も築くことができると思う。
ところで、カール・ロジャースは、「こうあるべき」とか「こうするべき」と
いった、「べき」から自由になることが大切だと言っているが、私もこの「べき」に随分苦しめられた。
この「べき」は、心理学では超自我(ス-パーエゴ)と呼ぶ。超自我(ス-パーエゴ)とは、子供のときに、主に親から言われたことが内面化され自分の自我になってしまい、親がいなくても、まるで親に「くさび」をかけられたように自分を支配するものである。
私の場合、自分の心に描いた「あるべき理想像」から「現実の自分」を、上から目線で常に責めていることに、心理学を学んで気がついた。自分を責める人間は、他人も責めるので、当然、人間関係も「ぎくしゃく」したものになる。
そこで、現実の「あるがままの未熟な自分」を承認し、その「現実の自分」に目線を置き、下から目線で、「理想像」に一歩でも近づくようにしようと心がけるようにした。そうすると、その努力は山登りのようなもので、楽しいものとなり、精神的にも非常に楽になり、人間関係も良好なものとなっていった。
したがって、この「照心語録」は、「何々しなければならない」ではなく、「習慣にして実践すれば立派な人間に成長できる」というとらえ方で学んで欲しい。
ちなみに、「何々しなければならない」の後には、「そうしなければ~」と続くが、この「~」には、例えば、「失敗する」や「人に嫌われる」といった否定的な言葉になる。
一方、「何々することができる」の後には、「そうすると~」と続くが、この「~」には、例えば、「成功する」や「人に好かれる」といった肯定的な言葉になる。
いずれにしても、何事も「否定する」より「肯定する」ことが、生きることを楽しくするコツのようである。
長々と述べてきたが、それは、父の60年近い体験から、どうしても知っておいて欲しいと思うことである。この「照心語録 重要な項目(様々な法則を含む)」は、以前つくった「照心語録」から、特に重要と思う項目をとりあげ、それに関連する語録を集めたものに、「様々な法則」を付け加えたものである。
「照心語録 厳選」とともに、「座右の書」として常に傍らにおいて、何度も読み返して欲しい。