照心語録 – 厳選

易経(『易経一日一言』)

『易経』とは、古代中国の占いの書である。符号を用いて状態の変遷、変化の予測を体系化した古典。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。著者は伏羲(ふくぎ)とされている。中国では『黄 帝内經』・『山海経』と合わせて「上古三大奇書」と呼ばれている。
『易経』は占いの書であるだけに、「時に兆しの専門書」ともいうべき書物であり、古代の中国の君主がこぞって学んだ、帝王学の書でもある。というのも、この書物をよく学べば、占わずして時の変化の兆しを察する洞察力、直感力を身につけることができるからである。

  • 一陰一陽これを道という
    陰陽は互いに対立しながら、助け合う。そして混ざり合おうとして交わりながら、らせん状に大きく循環して発達成長する道をつくる。学びの時代は陰。その学んだものを社会に発揮することは陽。夜に休んで英気を養うのは陰。そして翌日、力強くさわやかに目覚めることは陽にあたる。
  • 天地交わりて万物通ずるなり。上下交わりてその志同じきなり。
    天の気と地の気が交わって地上の万物が生まれ、上下が交わって意志が通じる。陰陽が交わらなければ、何ものも生育することはない。経営者と部下の志が一つになって大事業が成り立つ。
  • 拠るべきところにあらずして拠るときは、身必ず危うし。
    「拠るべきところ」とは、自分の分限にあった地位・立場・行動などをいう。
    そういう分限を守らず、分不相応な地位や名誉を手にしたとしても、重責に耐えられず、恥辱を受けて苦しむことになる。自分の分限を大きく外せば必ず身が危うくなる。
  • 往を彰かにして来を察し、顕を微にして幽をひらく。
    「往」は過ぎ去った時。
    「顕」は顕著に現れている現在の状況。
    「微」は現在の状況をつくった微細な要因。
    「幽」は眼に見えない物事の根本。
    過去を明らかにし、現在を把握し、それをもとに未来を察知する。
    今、眼にしている現象も、微小な原因から育ったものである。原因を知れば、現象の裏側にある根本が見え、そして、将来の有り様を察することができるようになる。
  • 共時性
    「共時性」とは心理学者のユングが提唱した「共時性原理」のことである。
    心で感じ思ったことと、外部の出来事とが、あたかも因果関係があるかのように共振共鳴して意味をなすことをいう。ユングは、すべての物事は深層でつながり、互いに連動していると仮説を立てたが、この考え方は易経の影響からである。ユングによると、共時性は偶然性ではなく、規則性があるとしている。
  • 易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれば久し。
    陰が極まれば陽になり、陽が極まれば陰に変化する。このように、物事は行き詰ることがなく、窮まれば必ず変化する。変化すれば必ず新しい発展がある。それが幾久しく通じていって、生成流転するのである。
  • 危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしむ。
    常に危ぶみ、おそれ、自分を省みている者は国や組織を泰平に保ち、物事を安易に考え、侮る者は保てない。
  • 天に応じて時を行う。ここをもって元いに亨るなり。
    天の運行に応じて、その時々にピッタリの時の的を射る行いをすることで、物事は多いに通じという意味。例えば、農作業でいえば、春に種を蒔き、夏に草刈をし、秋に収穫して、冬に土壌を養うのが時の的を射ること。
  • 乾道は男を成し、坤道は女を成す。乾は大始を知り、坤は成物を作う。
    「乾道」は積極・推進の陽の道で、男性的な性格を持ち、「坤道」は消極・受容・従順の陰の道で、女性的な性格を持つ。陽は始めを司り、陰は陽を受けて万物を生み育てるはたらきをする。システムを考え推進するのは男性が長け、それを受けて実用化し育てていくのは女性が長けている。陰陽は分けて考えるものではない。一対で大いなる働きを成すのである。
  • 君子は器を身に蔵し、時を待ちて動く。
    「器」とは弓矢のことで、利器を意味する。これは世の中に役立つ力や才能のことをさす。この言葉は、不断の修養により力をたくわえ身につけて、時が来たら行動するのが良いと教えている。
  • くるしみて貞なるに利ろしとは、その明を晦ますなり。(地下明夷)
    地下明夷は太陽が沈み隠れたような暗黒の時代の生き方。下の者は明徳を持っているが、上に立つ者はとても愚かである。これを易経では、殷のチュウ王が権力を振るった時代にたとえる。このような時代には、明るさや徳は傷つけられ、害され、正道は一切通らない。そのため艱難辛苦するが、どんなに苦しくても、後のために、固く自分の聡明さを隠して耐えよ、と易経は教えている。
  • 積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり。
    善を積む家には子々孫々の後まで喜びがあり、不善を積む家には後世まで災禍がある、という因果応報の意味に使われるが、本来は、日々小さな善を積んでいれば必ず慶びに行き着き、日々不善を積んでいけば必ず禍に行き着くという意味。
  • 「いっこういっぺき」これを変といい、往来窮まらざる、これを通という。
    変通窮まりない易の理を、一枚の扉にたとえている。ある時は閉じ、ある時は開く。これを変といい、窮まることなき往還を表す。そしてこのように物事が変化していくことを通という。変わることによって物事は通じていく。
    戸を閉じて充電し、活動のエネルギーを養うのが陰の坤。戸を開いて外に向って積極的に活動するのが陽の乾。開いたままでも閉じたままでも、物事が通じていかない。
  • 丈夫に係れば、小子を失う。
    信頼のおける人に随うならば、小人との不正な関係は断ち切れる。不正な関わりを捨てさえすれば、自分の身を保つことができる。
  • 衆にのぞみ、晦を用いてしかも明なり。
    「晦を用いて」とは、自分の才能や地位を隠し、人の目を晦ますこと。
    リーダーがあまり明察聡明で細目をやかましくいえば、部下は自分の能力を発揮できなくなる。要するに、人々に相対するのに、時には馬鹿を装えという教え。
  • 大君命あり。国を開き家を承けしむ。小人は用いるなかれ。
    戦が終わると功績があった者を諸侯に取り立て、また官職に命ずる。しかしその時、功績があったとしても、小人は重用してはならない。これは人材登用の鉄則として用いられてきた言葉。古くは『書経』にも同様の言葉がある。功績をあげても、自分の利益だけを考え、人からの信頼を得ない小人は、必ず国を乱す。ゆえに金銭をもって賞するにとどめ、大任を与えてはならない。
  • 天行は健なり。君子もって自彊して息まず。
    天の動きは健やかで一日も止まらない。それにならって、自ら強く励み、努めて止まないことが大切である。
  • 立ちて方を易えず。
    一旦志を立てたならば、しっかりと自分を確立して、グラついたりしない。何があっても自分の道を守りぬくこと。人は飽きると変化を求めるが、本来は毎日同じことの繰り返しの中で変化し、成長を遂げるものである。
  • 君子は終わりあり。
    君子は初志を変えず、終わりを全うする。
  • 天に先立ちて天に違わず、天に後れて天の時を奉ず。しかるをいわんや人においてや。
    私心なく物事を客観視するならば、時の兆しを観て先立って行動しても、天の時とぴったり順応する。また時に後れても天の理に従い行えば、道に外れない。天の時さえ違えなければ、人はいうまでもなくその行いに従う。
    「天の時」は、わかりやすくいうと春夏秋冬の循環のこと。易経は四時(春夏秋冬)をよく見て、それに習い、従いなさいと繰り返し説く。人生にも物事にも、天の時、天の理に従ったしかるべき順序がある。しかし、人は欲や私情によって、物事の順序、情理を見失いがちである。何か問題が起きた時、壁にぶつかった時には、冬に種を蒔くようなことをしていないか、夏が終わろうというのに、まだ伸びようとしていないか、しかるべき順序に従ったかどうかを考えてみることだ。それができてはじめて、「機」を掴み、「機」を自在に用いることができる。
  • 陽卦は陰多く、陰卦は陽多し。
    優れた能力や技術を持つリ-ダー(陽)には、その力に頼り従う人々(陰)が集まる。人を育てる包容力のあるリーダー(陰)には、優れた能力の人々(陽)が集まる。組織、集団は少数の者が中心勢力となって、多数の者を指導することで組織が成り立ち、バランスがとれる。しかし、指導者が多くなる時は争いが起こる。
  • 天地はそむけどもその事同じきなり。男女はそむけどもその志通ずるなり。
    ここには、万物は背きあうことにより統一され進歩していくという、中国的弁証法、矛盾論の実践が説かれている。
  • 大人を見るによろしきとは何のいいぞや。子曰わく、龍徳ありて正しく中する者なり。
    見習うべき大人とは、「龍徳」明らかな志を持ち、「正しく中する者」であるという。「中」は時の的に中る。すなわち、その時々にぴったりの言行によって、鋭く物事の的を射て、私事の偏りがないという意味。その時その場において出処進退をわきまえ、最も適切なことを行うこと。
  • こう龍悔いあり。
    「こう龍」は、高ぶる龍。誰でも組織の頂点に立つと慢心が生まれる。驕り高ぶり、周囲の諫言を聞く耳を持たなくなり、努力と反省を怠って、正邪の区別さえつかなくなる。そうなってしまったら、時すでに遅し。あとは地に落ちる降り龍になるしかない。
  • こう龍悔いありとは、みつれば久しかるべからざるなり。
    満月が必ず欠けるように、物事もみつれば必ず欠けるように、物事もみちれば、それは久しく続かないということ。
  • 郡龍首なきを見る。吉なり。
    群がる龍の頭は雲に隠れている。つまり、優れたリーダーは自己主張がなく、圧力をかけず、トップ争いをしないという意味。リーダーがリーダーたりえるのは、力や威厳があり、人々の頂点にいるからではない。その働きが大義に従うものだからである。それを勘違いして権力を争うようでは、やがて失墜する。
  • 潜龍元年
    潜龍とは、将来大きく飛躍する大志を抱きながら、世の最下層に潜み隠れる龍のことをいう。重要なのは志であり、志を抱くことがなければ、何の変化も起こらず、成長や進化もない。また、志を抱くのに年齢は関係がない。新たな変革を起こす志を養うことが大切である。
  • 徳薄くして位尊く、知小にして、謀大に、力小にして任重ければ、及ばざることすくなし。
    道徳が薄くて地位だけが高く、少しの知恵で大業を起こし、力が小さいのに責任が重ければ、たいてい禍が及ぶ。これは国家でいえば大臣、会社組織でいえば重役の位置にある人についての言葉である。知(知恵)仁(徳)勇(力量)の徳は、どれ一つ欠けても任務を負えない必需の徳である。
  • 惜福の工夫
    福を惜しむと書く「惜福」とは幸田露伴の言葉である。露伴は、満足はいけないという。我々はともすれば満足しようと、欠けるものがあれば、それを満たそうと必死になる。しかし満ちてしまえば後は欠けるのが天の道理である。そこで、自分に与えられた福を享受し尽さないで、後に残しておく。あるいは、勢いや幸をすべて使いきらないで、他に及ぼしたり、自ら不足を作り出す。そうすれば、決して満ちることなく、福が保たれる。これが「惜福の工夫」である。
  • 同声相応じ、同気相求む。水は湿えるに流れ、火は燥けるに就く。雲は龍に従い、風は虎に従う。
    同じ響きを発するものは共鳴し、同じ気を求め合う。水は湿ったほうへ流れ、火は乾いたものにつく。龍には雲が従い、威を奮う虎には風が従う。
    物事が成り立つ時は、必ず同じ志や方向性を持つ人や物が共鳴共振して、引き寄せられ、いっきにエネルギーが集中し融合する。その結果、個々の力では到底なしえないことが実現するのである。
  • 変を尊ぶ
    どんなに困難な時であろうとも、必ず物事は変ずる。逆にどんなに安定した時であっても、必ず物事は変ずる。満月が新月に向かうように、安定は傾くほうへ向かい、また、傾いたものは安定へと向かう。人生にはさまざまな時があるが、易は変を尊び、変化するからこそ成長と発展があるとしている。
  • 地の道は成すことなくして、代わって終わり有るなり。
    地道、妻道、臣道は陽に従う陰の道。地は天に従い、妻は夫に従い、臣は主に従う。地は天の恵みを受けて大地に万物を形作る。同じく妻や臣下は自分の才能を表に出さず、ひたすら受容し、従いながら物事を生み育て、形にする陰の力である。誰でも脇役や縁の下を支える陰の存在で終わりたくないと考えるが、陰の育成したものは受け継がれていく。本当の意味で終わりを全うできるのは陰の道なのである。
  • 二人心を同じくすれば、そのするどきこと金を断つ。同心の言は、その香り蘭のごとし。
    高い志を持つ二人の人間が心を同じくすれば、硬い金属をも断ち、不可能を可能にするほどの働きをする。また互いが真心から語り合う言葉は、蘭の花の香りのように深く、透明で、芳しい。この一文は「断金の交わり」「金蘭の交わり」の語源である。いずれも私縁ではない友、同志の結束が堅いことをいう。
  • 三人いけば、一人を損す。一人いけばその友を得。
    三人で何かを行おうとすると、途中で揉めて一人が減る。一方、一人で行えば協力者を得ることができる。これは陰陽に基づく易の本質論である。陰と陽で一対であるから、三は必ず一を損し、一は必ず二になるというわけである。したがって、深い話をするには、三人ではなく、一対一ですれば理解し合えるということになる。これはさまざま物事に応用できる。
  • 乱の生ずるところは、すなわち言語もって階をなす。君密ならざるときはすなわち臣を失い、臣密ならざるときはすなわち身を失い、機事密ならざるときはすなわち害成る。
    「階」とは段階のこと。物の乱れが生じるのは、まず人の言葉がきっかけになる。言って良いこと悪いこと、言うべきこと、言わざるべきことの節度を持たなければ、君主は臣下を失い、臣下は身を滅ぼす。「機事」とは、取り扱いが大切な事柄。機密を軽率に口に出せば、必ず害になる。
  • 天地の大徳を生という。
    天地の徳の中で、最も大きなものを生という。人もそれにならい、リーダーはあらゆる人を生かすように考え、指導しなくてはいけない。
  • 天地閉じて、賢人隠る。
    たとえば、天を政府、地を国民とする。政府が国民の気持ちを考えず、国民が政府の方針に従わなければ、どちらも意思の疎通が図れず、国は乱れる。これが「天地閉じて」という状態である。賢い人は、そういう時代には自分の能力を活かせないと知り、口を閉じ、遠く隠遁するようになる。一見卑怯に見えても、時を待つしか術が無い時もある。そういう時は、じっと堪えて、来るべき時代に備えるしかない。
  • 天地交わらざるは否なり。君子もって徳をつつましやかにし難をさく。栄するに禄をもってすべからず。
    天地交わらざるとは、人が起こした禍で無道乱世の世の中。このような時は、出世や儲け話から遠ざかり、要職にも就くべきではない。要職に就けば、後に必ず災難が降るかかる。
  • 永く貞しきによろし。用六の永貞は大をもって終わるなり。
    「創業」と「守成」を陰陽に割り振るならば、「創業」は陽で「守成」は陰となる。積極的に推進する「陽」の力だけでは物事を永く持続することができない。繁栄を保つには柔順柔和に従い、受容する「陰」の力をリーダー自らが生み出す努力が必要。「用六の永貞」とは、「陰」の徳を用いて永く正しく守り、大きな功績を成就すること。リーダーは陰徳を体得しなくてはいけない。
  • 剥にまことあり。あやうきことあり。
    「剥にまことあり」とは、小人を恐れなければ、いずれ自らの誠心が剥奪されるということ。どんな聖人も、言葉巧みに近づいてくる小人には警戒心を持った。小人は人を悦ばせる術に長け、いつしか懐に忍び込み、相手を取り込んでしまうからである。
  • 上交して諂わず、下交してみだれず、それ機を知れるか。
    物事の僅かな機微を察知する人は、上に対して恭順であるが諂わず、下に対しては親しいが馴れ合いにはならない。けじめをきちんとつけるのは、諂いや馴れ馴れしい関係が、後に良いことにならないことを知っているからである。

  • 仁とは大きな愛、思いやりである。

  • 「義」は義理、正義の義である。義は季節でいえば秋にあたる。秋には稲穂を伐採し、米だけを残して他を省き、収穫を得るという意味がある。残すものと捨てるものを分けるのが、義である。したがって義には「この程度でいいか」という曖昧(あいまい)さがあってはならない。右と左ははっきりと分かたれる。いい加減なものではなく非常に厳しいものである。
  • 兆しを察する
    易経は、春夏秋冬の巡りを基として、時の変化の原理原則、栄枯盛衰の法則を説いている。これを実践して学ぶことで、物事の全体の成り行きである大局を見通す力がつく。やがて時の本質を見抜く洞察力が養われ、さらにわずかな兆しで先行きを察する直感力に発展するのである。
  • 時流を追うな
    世間ではいかに時流に乗るかと切磋琢磨するが、易経は「時流を追いかける者は時流とともに滅びる」としている。ツキがあろうがなかろうが、その時々に為すべきことをするというのが易経の教え。春や夏に為すべきことをせずに、いつも実りの秋ばかりを追いかけるのは無理な話である。
  • 君子豹変す。小人は面を革む。
    君子は改革・変革の時に応じて過ちを改め、豹のように毛色を美しく変える。一方、小人は心にもないのに顔つきだけ改める、という意味。「君子豹変」は現在では悪く変わる意味に使われているが、本来は良い方向ヘ改める意味がある。
  • 天徳首たるべからざるなり。
    人を導くリーダーは、いくら自分の才能があってもそれをひけらかさず、自分のやってきたことがどんなに高く評価されても、自分の手柄にして表立ってはいけない。争って自分が先駆けとなるのではなく、人を先にし、人の才能を育てるべきである。これは有名な『老子』の「三宝の徳」にある「あえて天下の先とならず」と同じ意味である。
  • 貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位にあるも輔くるなし。
    どんな優れた人でもトップの座に長くいると必ず驕りが出てくる。リーダーが失脚する兆候は、人の意見を聞かなくなること。いくら賢い部下がいても耳を傾けなくなり、そのうち自己中心的になって正しい判断を失う。そうなると人はついて来なくなり、リーダーとは名ばかりになってしまう。
  • 君子もって多くの前言往行を識し、もってその徳をやしなう。
    「前言往行」とは古人、昔の人たちのいった言葉や行いのこと。君子はそれらを読み、学んで思索し、徳を養うものである。
  • 文徳をよくす。
    物事が滞って思うように進まない時は、文徳を修め、従順温和に勉める。文徳は文武両道の武徳に対するもの。武は表面的に戦う力強さ。一方、文徳は内面の精神性、芸術性、知性をいう。心を磨き高めることにより、打開の道が開けてくる。
  • 人を見る目
    人を見る目が養われるのは、社会の最下層にいる不遇の時代である。世に認められ、それなりの立場になると人は本心を見せなくなる。世間の風当たりの強い時こそ、嘘偽りのない人の心根に触れ、人情の機微を知ることができる。不遇な自分に対する人々の接し方から、思いやりの大切さや人への応対の根本を学ぶのである。
  • 君子はその身を安くしてしかる後に動き、その心を易くしてしかる後に語り、その交わりを定めてしかる後に求む。
    優れたリーダーは三つの能力を修めている。
    第一に、危ない時には動かない。負ける喧嘩はしない。
    第二に、よく考え、確信を持ってから平易な言葉で語る。思いつきで語ることはない。
    第三に、人と親しく交際し、その信頼を深めてから物事を求める。
  • 艮まるに敦し。吉なり。
    止まるべき時に手厚く止まる。それは吉であるといっている。自分の器量を知り、自ら止まる。そういう姿勢でいれば、止まる時は自由に止まり、動く時であれば自由に動くことができる。
  • 美その中にあって、四支にのび、事業に発す。美の至りなり。
    謙虚、柔和、柔軟、受容の精神が体の内の隅々にまで行き渡るようであれば、徳はその人の行いに表れるのではなく、行う事業に表れる。それは美(徳)の至りであるという。美徳とは、陰の徳をいう。隠したもの、秘めたものが、光が漏れ出すように外に表れてくる。それが美徳である。
  • 易簡にして天下の理得らる。
    易しく、簡潔な時の変化の道理を知り、日々に用いることで、天下の理を知りえる。一日は朝昼晩、一年は春夏秋冬、順序を違えず巡り、人間もまた誕生・成長・成熟を経て衰え、混沌に帰る。万象はこの原理原則に従って変化する。この理法を日々の実践に活かすことで、世の中の複雑な出来事に、単純明快にして簡潔な一本の道筋を見出すことができる。それが天下の理であり、それをつかむ実践を知恵という。