照心語録 – 厳選

森信三(『修身教授録一日一言』)

『修身教授禄』とは、森信三氏(明治29年~平成4年)が、当時39歳から41歳に及ぶ期間(昭和11年から13年)に、師範(教育者、学校の先生)を養成する学校の生徒(中学3年生)を対象に、講義したものをまとめたもので、教育界だけでなく、多くの経済界のリーダーたちに読み継がれる隠れた名著である。なかでも、「最善感」と「下坐行」の教えは、多くの人々の心を捉えた、すばらしい教えでる。

  • とにかく人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です。
  • 国家の全運命を、自分独自の持ち場のハンドルを通して、動かさずんば已まぬという一大決心の確立した時、その人の寿命は、天がその人に与えた使命を果たすだけは、与えるものです。それよりも永くもなければ短くもありません。
  • 教育の眼目―相手の魂に火をつけて、その全人格を導くということ。
  • 人間の真の強さというものは、人生のどん底から起ち上がってくるところに、初めて得られるものです。人間もどん底から起ち上がってきた人でなければ、真に偉大な人とは言えないでしょう。
  • 真の志とは、自分の心の奥底に潜在しつつ、常にその念頭に現れて、自己を導き、自己を激励するものでなければならぬのです。いやしくも、ひとたび真の志が立つならば、それは事あるごとに、常にわが念頭に現れて、直接間接に、自分の一挙手一投足に至るまで、支配するところまでいかねばならぬと思うのです。
  • 人間は40までは、もっぱら修行時代と心得ねばならぬということです。現に山登りでも、山頂まではすべてが登り道です。同様に人間も、40まではいわゆる潜行蜜用であって、すなわち地に潜んで自己を磨くことに専念することが大切です。
  • とにかくわれわれ凡人は、偉人の教えというものを、常にわが身から離さないようにしていないと、わが身の反省ということも、十分にはできがたいものであります。ところが反省しないと、せっかくの燃料としてのこれからのことも、ただ汚いまま、臭いままで終わってしまいます。
  • そもそも世の中のことというものは、真実に心に願うことは、もしそれが単なる私心に基づくものでない以上、必ずやいつかは、何らかの形で成就せられるものであります。このことは、これを信ずる人には、必然の真理として実現するでしょう。
  • 自己を制することができないというのも、畢竟するに生命力の弱さからです。
  • 実は真実の道というものは、自分がこれを興そうとか、あるいは「自分がこれを開くんだ」というような考えでは、真に開けるものではないようです。
    では、真実の道は、一体いかにして興るものでしょうか。それには、「自分が道を開くのだ」というような一切の野心やはからいが消え去って、このわが身わが心の一切を、現在自分が当面しているつとめに向かって捧げ切る「誠」によってのみ、開かれるのであります。
  • 最善観
    わが身に降りかかってくる一切の出来事は、自分にとって絶対必然であると共に、また実に絶対最善である。
  • われわれ人間も、どうしても真実を積まねばならぬわけですが、しかし事を積むには、まずその土台からして築いてかからねばなりません。では人間を鍛えていく土台は、一体どういうものかというに、私はそれは「下坐行」というものではないかと思うのです。下坐行を積んだ人でなければ、人間のほんとうの確かさの保障はできないと思うのです。たとえその人が、いかに才知才能に優れた人であっても、またどれほど人物の立派な人であっても、下坐を行じた経験を持たない人ですと、どこか保障しきれない危なっかしさの付きまとうのを、免れないように思うのです。
  • 本当に偉い方というものは、そうみだりに声を荒げて、生徒や門弟を叱られるものではないのです。第一その必要がなかろうと思うのです。大声で生徒を叱らねばならならぬということは、それ自身、その人の貫禄が足りない何よりの証拠です。つまりその先生が、真に偉大な人格であったならば、何ら叱らずとも門弟たちは心から悦服するはずであります。
  • 人間救済の情熱は、これを大別する時、結局、政治と教育という二つの現われ方をすると言ってよいでしょう。すなわち政治は外を正すことによって、内を正そうとするものであり、教育はこれに反して、内を正すことによってついには外をも正そうとするものであります。
  • 教えの光に照らされるということは、つまりは自分の醜さが分かりだすということです。
  • 人間も自己を修めないことには、真の人物になることはできません。このことを痛感して、自修の決心を打ち立てる時、そこに始めて真の修身科が始まるわけです。
  • われわれ人間も、この「暑い」「寒い」ということを言わなくなったら、およそそれだけでも、まず同じ職域内では、一流の人間になれると言ってよいでしょう。
  • 自分が現在なさねばならぬ事以外のことは、すべてこれを振り捨てるということと、なすべきことに着手するということは、元来、一つの事の両面とも言うべきであって、この点は、おそらくわれわれが仕事をし果たす上で、一番の秘訣かと思うのです。
  • すべて実行的な事柄というものは、原則としては「一気呵成」ということが、事を成す根本と言ってよいでしょう。
  • 人間というものは、その人が偉くなるほど、しだいに自分の愚かさに気付くと共に、他の人の真価がしだいに分かってくるものであります。そして人間各自、その心の底には、それぞれ一箇の「天真」を宿していることが分かってくるものであります。
  • 真の修養とは、人間的威力を鍛錬することです。無力なお人よしになることは、大よそ天地隔たることと言ってよいのです。つまり真の内面的な自己を築くことです。その人間の前では、おのずから襟を正さずにはいられないような人間になるということです。
  • 一人の優れた人格というものは、決して生やさしいことでできるものではありません。その人が、現実生活においてなめる苦悩の一つひとつが、その人を鍛えて、その人から生なところを削りとっていくわけです。すなわち生活の鍛錬が、その人からすべての甘さを削り取っていくわけです。

森信三(『森信三 一日一言』)

  • 「人生二度なし」これ人生における最大最深の真理なり。
  • つねに腰骨をシャンと立てること-これ人間の性根の入る極秘伝なり。
    〈注〉「腰骨を立てること」は、精神の統一力・集中力・持続力の強化につながると力説せられました。
  • 天下第一等の師につきてこそ、人間も真に生甲斐ありというべし。
  • 絶対不可避なることは即絶対必然にして、これ「天意」と心得べし。
  • 幸福とは求めるものではなく、与えられるもの。自己の為すべきことをした人に対し、天からこの世において与えられるものである。
  • 一切の悩みは比較より生じる。人は比較を絶した世界へ入るとき、始めて真に卓立し、所謂「天上天下唯我独尊」の境に立つ。
  • 人間は一生のうち、何処かで一度は徹底して「名利の念」を断ち切る修行をさせられるが良い。
  • ご飯が喉を通ってしまうまでお菜を口に入れない-これ食事の心得の根本要諦である。
  • 「朝のアイサツは人より先に!!」-これを一生つづけることは、人として最低の義務というべし。
  • 相手に受け容れ姿勢が出来てないのにお説教するのは、伏さったコップにビールをつぐようなもの-入らぬばかりか、かえってあたりが汚れる。
    〈注〉「伏さったコップを先ず上向きにすること」が何より大切と力説。それには、先ず「あいさつ・スマイル・認めてほめる」こと。
  • 畏友と呼びうる友をもつことは、人生の至楽の一つといってよい。
  • 苦しみや悲しみの多い人が、自分は神に愛されていると分かった時、すでに本格的に人生の軌道に乗ったものといってよい。
  • 自分に対して、心から理解しわかってくれる人が数人あれば、一応この世の至楽というに値しよう。
  • 「家計簿」をつけるということは、妻たり主婦たるものの第一の絶対的義務。
  • 一切の人間関係のうち夫婦ほど、たがいに我慢の必要な間柄はないと云ってよい。
  • 信とは、いかに苦しい境遇でも、これで己の業が果たせるゆえんだと、甘受できる心的態度をいう。
  • 観念だけでは、心と身体の真の統一は不可能である。されば身・心の真の統一は、肉体に座を持つことによって初めて可能である。
    〈注〉これが「身心相即」の理と言われるもので、「肉体に座を持つ」とは、一つは立腰であり、いま一つは臍下丹田と言われるものです。
  • 私が何とか今日までこれたのは、十五歳のとき伯父の影響で岡田式静座法を知り、爾来八十二歳の現在まで一貫して腰骨を立てて来たことに拠るが、しかし近頃になって、それだけでは尚足りず、やはり「丹田の常充実」こそ最大なことに目覚めて、今や懸命にこれと取り組んでいます(尚、丹田の充実には、最初に「十息静座法」をした上で入るのが良いと思います)。
  • 人間として最も意義深い生活は、各自がそれぞれ「分」に応じて報恩と奉仕の生活に入ることによって開かれる。
  • 眼に見える物さえ正せない程度で、刻々に変転して止まぬ人間の心の洞察など、出来ようはずがない。
    〈注〉かつて「履物を揃えることの重要さの解らない者は教師になるべきではない」とお聞きしました。
  • 金の苦労によって人間は鍛えられる。
  • 節約は物を大切にする以上に、わが心を引き締めるために有力だと分かって人間もはじめてホンモノになる。
  • すべて人間には、天から授けられた受けもち(分)がある。随ってもしこの一事に徹したら、人間には本来優劣の言えないことが分かる。
  • 人に長たる者は孤独寂寥に耐えねばならぬ。
  • 人はすべからく終生の師をもつべし。真に卓越せる師をもつ人は、終生道を求めて歩きつづける。その状あたかも北斗七星を望んで航行する船の如し。
  • 人間下坐の経験のない者は、まだ試験済みの人間とは言えない。
    〈注〉下坐行とは、地位・年齢をこえて、身を下におき日常実践に努めることで、「近隣清掃」や「トイレ掃除」にすすんで参加することです。
  • 多少能力は劣っていても、真剣な人間の方が最後の勝利者になるようです。
  • われわれ人間は「生」をこの世にうけた以上、それぞれの分に応じて、一つの「心願」を抱き、最後のひと呼吸までそれを貫きたいものです。
  • 心は見えないから、まず見える身体のほうから押さえてかからねばならぬ。それ故心を正そうとしたら、先ず身体を正し物を整えることから始めねばならぬ。クツをそろえること一つが、いかに重大な意味をもつかわからぬような人間は、論ずるに足りない。
  • 「腰骨を立てる」ことは、エネルギーの不尽の源泉を貯えることである。この一事をわが子にしつけ得たら、親としてわが子への最大の贈り物といってよい。
  • 一、腰骨を立てる
    二、アゴを引き
    三、つねに下腹の力を抜かぬこと
    同時にこの三つが守れたら、ある意味では達人の境といえよう。
  • この世における辛酸不如意・苦労等を、すべて前世における負い目の返済だと思えたら、やがては消えゆく。だが、これがむつかしい。
  • 如何にささやかな事でもよい、とにかく人間は他人のために尽くすことによって、はじめて自他共に幸せになる。これだけは確かです。
  • 人間は何人も自伝を書くべきである。それは二度とないこの世の「生」を恵まれた以上、自分が生涯たどった歩みのあらましを、血を伝えた子孫に書きのこす義務があるからである。
  • 人間の生き方にはどこかすさまじい趣がなくてはならぬ。一点に凝集して、まるで目つぶしでも喰わすような趣がなくてはならぬ。人を教育するよりも、まず自分自身が、この二度とない人生を如何に生きるかが先決問題で、教育というのは、いわばそのおこぼれに過ぎない。
  • 毀誉褒貶を超えなければ、一すじの道は貫けない。
    毀誉褒貶=ほめたり、けなしたりすること
  • この地上には、一さい偶然というべきものはない。外側からみれば偶然と見えるものも、ひと度その内面にたち入って見れば、ことごとく絶対必然だということが分かる。
  • 人はその一心だに決定すれば、いかなる環境に置かれようとも、何時かは必ず、道は開けてくるものである。
  • 足ものとの紙クズ一つ拾えぬ程度の人間に何が出来よう。
  • 肉体的苦痛や精神的苦痛は、なるべく人に洩らさぬこと。人に病苦や不幸を漏らして慰めてもらおうという根性は、甘くて女々しいことを知らねばならぬ。
  • 畏友というものは、その人の生き方が真剣であれば必ず与えられるものである。もし見つからぬとしたら、それはその人の人生の生き方が、まだ生温くて傲慢な証拠という他あるまい。
  • 批判眼は大いに持つべし。されど批判的態度は厳に慎むべし。
  • 心の通う人との「いのち」の呼応こそ、この世における真の浄福であり、人間にとって真の生甲斐といってよかろう。
  • 精薄児や身障児をもつ親は、悲観の極、必ず一度はこの子と共に身を滅したいとの念いに駆られるらしいが、しかもその果てには必ず、この子のお陰で人間としての眼を開かせてもらったという自覚に到るようである。
  • 夫婦の仲というものは、良きにつけ悪しきにつけ、お互いに「業」を果たすために結ばれたといえよう。そしてこの点に心の腰がすわるまでは、夫婦間の動揺は止まぬと見てよい。
  • その人が何を言っているかより、何を為しているかが問題。そして両者の差がヒドければヒドイほど、その人は問題の人といってよかろう。もしその上に有名だったら、一種の悪党性がつけ加わるとさえ言えよう。
  • 人間は才知が進むほど、善・悪両面への可能性が多くなる。故に才あるものは才を殺して、徳に転ずる努力が大切である。
  • 真に個性的な人の根底は「誠実」である。それというのも、一切の野心、さらには「我見」を焼き尽さねば、真に個性的な人間にはなれないからである。
  • 人間関係-与えられた人と人との縁-をよく噛みしめたら、必ずやそこには謝念がわいてくる。これこの世を幸せに生きる最大の秘訣といってよい。
  • 人間は身心相即的存在ゆえ、性根を確かなものにしようと思えば、まず身体から押さえてかからねばならぬ。それゆえ二十六時中、「腰骨を立てる」以外に、真に主体的な人間になるキメ手はない。
  • 人間何事もまず十年の辛抱が肝要。そしてその間抜くべからず、奪うべからざるは基礎工事なり。されば黙々十年の努力によりて、一応事は成るというべし。
  • 相手と場所の如何に拘らず、言うべからざることは絶対に口外せぬ。この一事だけでも、真に守り得れば、まずは一かどの人間というを得む。
  • この世の事はすべて借金の返済であって、つまるところ天のバランスです。すべてが「宇宙の大法」の現われだということが解ったら、一切の悩みは消えるはずです。
  • 読書は単に知的な楽しみだけであってはならぬ。直接間接に、わが生き方のプラスになるものを選びたい。それには単に才能だけで生きた人より、自殺寸前という様なギリギリの逆境を突破して、見事に生き抜いた人のものの方が、はるかに深く心を打つ。
  • 男は無限の前進に賭けるところがなければならぬ。女は耐えに耐えつつ貫き通すことが大切。
  • 「笑顔は天の花」
     笑顔によって、相手の心の扉が開けたら-。
    〈注〉先生は笑顔を大変重視せられました。あえて「鏡笑法」と申され、毎朝鏡に向かうたびに、笑顔の練習をさえ勧められました。
  • 人間は真に覚悟を決めたら、そこから新しい知恵が湧いて、八方塞がりと思ったところから一道の血路が開けてくるものです。
    〈注〉「決心覚悟」とか「ハラがまえ」という言葉をしばしば拝聴しましたが、幾多の辛酸逆境を通過せられた体験からくる言葉でありましょう。
  • 声は腹より出すものなり。座談に至るまで、その一語一語が腹より出づるに到れば、これひとかどの人物というべし。それには常に下腹の力の抜けぬ努力が肝要。
    〈注〉白隠禅師の言葉に「気海丹田・腰脚足心」とありますが、やはり重心を下におく工夫というものが大切なようです。
  • 「誠実」とは、言うことと行うことの間にズレがないこと。いわゆる「言行一致」であり、随って人が見ていようがいまいが、その人の行いに何らの変化もないことの「持続」をいう。
  • 我執とは、自己の身心の統一が得難く、その分裂乖離の結果、心が欲望の対象に偏執する相といえる。それゆえ、およそ「修業」の根本となるものは、いずれも身・心の相即的統一を図る工夫を念とする。
    〈注〉「身・心の相即的統一を図る工夫」として、坐禅あり、掃除あり、歩行あり、そして読経あり素読ありであります。
  • 人生を真剣に生きるためには、できるだけ一生の見通しを立てることが大切です。いっぱしの人間になろうとしたら、少なくとも十年先の見通しはつけて生きるのでなければ、結局は平々凡々に終わると見てよい。
    〈注〉「十年先の見通し」とのお説は知恵の第一内容に属するものでしょう。
    知恵とは(一)先見性(二)全体性(三)透察性を意味するからです。
  • 人間の甘さとは、自分を実際以上に買いかぶることであり、さらには他人の真価も、正当に評価できないということであろう。
  • 念々死を覚悟してはじめて真の生となる。
  • 「心願」とは、人が内奥ふかく秘められている「願い」であり、如何なる方向にむかってこの自己を捧げるべきか-と思い悩んだあげくのはて、ついに自己の献身の方向をつかんだ人の心的状態といってよい。
    〈注〉「立志」と「心願」とは少しニュアンスが違うようです。立志には野心・野望の匂いがまだ残っていますが、「心願」にはそうしたものが微塵も感じられないのが本来の姿です。