照心語録 – 厳選

安岡正篤(安岡正篤一日一言)

安岡正篤(明治38年~昭和58年)は、幼少のころから中国古典をはじめとする東洋哲学を学び、昭和24年に師友会を設立。政財界のリーダーの啓発・教化に努め、その精神的支柱となる。その教えは人物学を中心として国民の各層に深い感化を及ぼし、国民的教育者として今日なお日本の進むべき方向を示している。

  • 学問というものは現実から遊離したものでは駄目であって、どうしても自分の身につけて、足が地に離れぬように、その学問、その思想をもって自分の性格を作り、これを自分の環境に及ぼしてゆくという実践性がなければ活学ではない。われわれは今後本当に人間を作り、家庭を作り、社会を作る上に役立つ生命のある思想学問を興してゆかなければならない。いわゆる実学、活学をやらねばならない。
  • 「学記」の名言に、「玉・磨かかざれば器を成さず、人・学ばざれば道を知らず。是の故に古の王者、国を建て、民に君たる、教学を先と成す」と説いている。
  • 太陽の光に浴さなければ、物が育たないのと同じことで、人間の理想精神というものは心の太陽なのだ。理想に向かって情熱を沸かすということは、日に向かう、太陽を仰ぐということだ。これがないと人間のあらゆる徳が発達せず、したがって才知芸能も発達しない。
  • 学問は人間を変える。人間を変えるような学問でなければ学問ではない。その人間とは他人のことではなく自分のことである。他人を変えようと思ったならば、先ず自分を変えることである。
  • われわれの一番悪いこと、不健康、早く老いることの原因は、肉体より精神にあります。精神に感激性のなくなることにあります。物に感じなくなる、身辺の雑事、日常の俗務以外に感じなくなる、向上の大事に感激性を持たなくなる、これが一番いけません。無心無欲はそういう感激の生活から来るもので、低俗な雑駁から解脱することに外なりません。
  • 実は自分を知り自力を尽くすほど難しいことはない。自分がどういう素質能力を天から与えられておるか、それを称して「命」と言う。それを知るのが命を知る、知命である。知ってそれを完全に発揮してゆく、即ち自分を尽くすのが立命である。命を知らなければ君子でないという『論語』の最後に書いてあることは、いかにも厳しい正しい言葉だ。命を立て得ずとも、せめて命を知らねば立派な人間ではない。
  • フィヒテが児童教育を論じて、子供は家にあって愛だけで育つと思ったら大間違いで、愛と同時に敬を求める。従って、愛の対象を母に、敬の対象を父に求めていると痛論している。人間が進歩向上する一番大切なことは敬する心を発達させることであり、それによって始めて恥を知ることができる。
  • 世間の毀誉褒貶がふれ得ないだけの深いものを自分に持たねばならなぬ。
  • 「知は行の始めなり。行は知の成るなり」という王陽明の説明がある。「知」というものは「行い」の始めである。「行」というものは「知」の完成である。
  • 活きた時間というものは朝だけだ。言い換えれば本当の朝を持たなければ一日はダメだ。昔から優れた人で早起きできない人はいない。
  • 凡と非凡のわかれる所は能力の如何ではない。精神であり感激の問題だ。
  • 第一流の人物はどこか普通の人の型にはまらぬものがなければならぬ。凡人の測り知れない多面的な変化に富んでいなければならぬ。天に通ずる至誠、世を蓋う気概と共に、宇宙そのもののような寂寞をその胸懐に秘めていてほしい。
  • 粗忽・がさつは最も人格の低劣を表す。高邁な人格はいかに剛健・活発にみえても、その人のどこかに必ずしっとりとした落ち着きや静けさを湛えているものだ。
  • 平生からおよそ善い物・善い人・真理・善い教・善い書物、何でも善いもの・勝れているもの・尊いものには、できるだけ縁を結んでおくことです。これを勝縁といい、善縁といいます。
  • 本質的なるものの影響は影響ではなくって、それはもう骨髄に入る。ものになる。身につく。これは影響ではなくって感化と言う。
  • いかなる異性に恋するかは自己人格と密接に関係する。すなわち自己の人物相応に恋する。故に人は恋愛によって自己を露呈するのである。
  • 人間には、これあるによって初めて人間であるという本質的な要素と、必ずしもそうでない付属的要素との二つがある。古神道でいう、心が明るい、清い、汚れがない、人を愛する、人を助ける、人に報いる、精進する、忍耐する等々の徳性こそが本質だ。これあるによって初めて人間となり得るのである。これに対して、智能や技術というものはあるにこしたことはない。確かに大事なものだけれども、それは特別の例外を除けば程度の差というべき付属的要素である。それよりもさらに大切なのは、良い習慣、習性を持つことである。
  • 命とは自己に発せる造化のはたらきである。命を知るとは、一方において真の自己に返ること、他方においては無限の真己に進歩させることでなければならぬ。
  • 王陽明は始めて真理は我が外に在るものではなく、内在するもの(良知)であり、我をおいていたずらに理を事物に求むることの誤りを悟ったのである。
  • とにかく人間というものは、栄えようと思ったならば、まず何よりも根に返らなければいけない。
  • 『淮南子』に「行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す」という名言がある。これは人間に通じてこないとわからない。年をとるにつれて身に沁む言葉だ。人間は五十歳にもなればある程度人生の結論に達する。と同時に心のどこかに自らを恕す、肯定しようとする意志が働く。その時に「五十にして四十九の非を知る」、今までの自己を一度否定することは、これは非常に難しい。だが過去の非を知り、自分が自分に結論を下すことは、新たにやり直すことであって、五十になってやり直し、六十になればなったでまた変化する。いくつになっても溌剌として維新してゆくことだ。
  • すべて生きとし生けるものはみな体を具えている。すなわち全体的存在なのであって、部分を雑然と集めたものではない。無数の部分から成り立っている全体である。この全体と部分、部分と部分の間柄が美しく調和している状態を「礼」という。
  • ・・そこで、自分にしろ、家にしろ、国家にせよ、全体を構成する部分が、その「分」本来の立場に於いて、或いは他の部分に対して、如何に為すべきやを問い出退することを「義」という。
  • 有り難いとか、感謝とよく言うが、自分の生活の中でまず不満や愚痴は未練がましく漏らさない心がけが肝要だ。
  • われわれは「気」を養うということが、一番根本の大事だ。いわば生のエネルギーを養うということ、言い換えれば「元気」ということが一番である。元気がないというのは問題にならぬ。しょぼしょぼして、よたよたして、一向に反応がないなんていうのは、論ずる価値がない。
     (この気を養うのに、最も効果的なのが呼吸法であり瞑想である。 定明)
  • 「心に一処に対すれば、事として通ぜざるなし」
  • ・・対象に魂を入れる-これが「対心一処」であります。
  • 自分というものは良い言葉である。ある物が独自に存在すると同時に、また全体の部分として存在する、自分の「自」の方は独自に存在する、自分の「分」の方は全体の部分である。この円満無碍なる一致を表現して「自分」という。
  • 生命力はいかにして強くなるか。それはあくまでも根気のある辛抱強い日常の自律自修に由る。鍛錬陶冶に拠る。意志と知能と筋骨との意識的努力、心臓・血管・内分泌腺その他生理的全体系の無意識的努力、自己に規律を課し、自己を支配する修練を積んで始めて発達する。安逸と放縦とは生命の害毒であり、敵である。
  • 植物の栽培に例えますと、目に見えない根の培養が深くないと麦が徒長する様なもので駄目です。良い栽培者は常に枝を剪定し、花や実を間引き、根の力を強くする様に苦心します。我々は潜在エレルギーを培養する様留意しなければなりません。
    木鶏の説(荘子)
    空威張りして「俺が」というところがある。
    相手の姿を見たり、声を聞いたりすると興奮するところがある。
    相手を見るとにらみ付けて、圧倒しようとするところがある。
    他の鶏の声がしても少しも平生と変わるところがなく、まるで木彫りの鶏のようです。
  • 「木の五衰」ということがある。まず一つは「懐の蒸れ」。枝葉が茂ることだ。枝葉が茂ると風通しが悪くなる。そうすると、そのために木が弱る。弱るから、どうしても根が「裾上がり」つまり根が浅くなってくる。根が上がってくる。そうすると生長が止まる、伸びなくなる。頭(梢)から枯れてく
    る。これを「末枯れ」という。末というのは梢(木末)という意味だ。梢が枯れてくると「末止まり」生長が止まる。その頃から、いろいろの害虫がつく。「虫食い」。
    人間もそうだ。いろいろの欲ばかり出して、すなわち貪欲・多欲になって修養をしない。つまり反省しない。そうすると風通しが悪くなる。つまり真理や教えが耳に入らなくなる。善語・善言を聞くということをしなくなる。そうすると「裾上がり」といって、人間が軽薄にオチョコチョイになってくる。そうするともう進歩は止まってしまう。すると悪いことばかりに親しむようになる。虫が食うのだ。つまらないやつにとりつかれ、そして没落する。これは「人間の五衰」だ。だから植物の栽培もこの省という一字に帰する。
  • 佳書とは、それを読むことによって、我々の呼吸・血液・体液を清くし、精神の鼓動をたかめたり、落ち着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書のことであります。佳い食物もよろしい。佳い酒もよろしい。佳いものは何でも佳いが、結局「佳い人」と「佳い書」と「佳い山水」との三つであります。
  • いつも申しますように、識にもいろいろあって、単なる大脳皮質の作用に過ぎぬ薄っぺらな識は「知識」と言って、これは本を読むだけでも、学校へのらりくらり行っておるだけでも、出来る。しかしこの人生、人間生活というのはどういうものであるか、あるいはどういう風に生くべきであるか、というような思慮・分別・判断というものは、単なる知識だけでは出てこない。そういう識を「見識」という。しかし如何に見識があっても、実行力、判断力がなければ何もならない。その見識を具体化させる識のことを「胆識」と申します。けれども見識というものは、本当の学問、先哲・先賢の学問をしないと出て来ない。さらにそれを実際生活の場において練らなければ、胆識になりません。
  • 生計・身計・家計・老計・死計の五つを宋の朱新仲は「人生の五計」という。我々の人生はこの五計を出ない。「生計」は人生如何に生くべきかという、特に身心健康法のこと。それを基にしてどういう社会生活・家庭生活を営むかかが、「身計・家計」である。ところで、「老」という文字には三つの意味がある。一つは年をとる。二つは練れる。三つは「考」と通用して、思索が深まり、完成するという意味だ。老いるとは単に馬齢を加えることではない。その間に経験を積み、思索を深め、自己・人生を完成させてゆく努力の過程でなければならない。これを「老計」という。それには先ず学ぶことだ。学問は年をとるほどよい。百歳にもなっての学問は、実に深い味があろうと思う。老いてボケるというのは学問しないからにすぎない。
  • 骨力は男性に在っては千万人を敵とする心、女性に在っては忍受である。千万人を敵とするの心は、やがて千万人を救うの心となる。
  • 無感動な人間ほどつまらぬものはない。よく世間で、あいつは熱がないとか、いっこうに張り合いがないと言うが、電気が伝わらないような人間は、実際つまらない。
  • 何にしびれるかによって、その人は決まる。中江藤樹は『論語』と王陽明にしびれた。人間は本物にしびれなければならない。
  • 人物学に伴う実践、即ち人物修練の根本的条件は臆せず、勇敢に、而して己を空しうして、あらゆる人生の経験を嘗め尽くすことであります。人生の辛苦艱難、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰、そういう人生の事実、生活を勇敢に体験することです。その体験の中にその信念を生かして行って、初めて吾々に知行合一的に自己人物を練ることが出来るのであります。
    知行合一・・・一般的には、「ちぎょうごういつ」と読むが、正しくは「ちこうごういつ」である
  • いかにすれば、いつまでも進歩向上していくことができるか。第一に絶えず精神を仕事に打ち込んでいくということです。純一無雑などと申しますと古典的でありますが、近代的にいうと、全力を挙げて仕事に打ち込んでいく、ということです。人間に一番悪いのは雑駁とか軽薄とかいうことでありまして、これは生命の哲学、創造の真理から申しましても明らかなことでありますが、これほど生命力・創造力を害するものはありません。また生命力・創造力が衰えると、物は分裂して雑駁になるものであります。これがひどくなると混乱に陥ります。人間で申しますと自己分裂になるのです。そこで絶えず自分と言うものを何かに打ち込んでいくことが大切であります。
    雑駁:雑然としていてまとまりがないこと
  • 良い縁がさらに良い縁を重ねて発展していく様は誠に妙なるものがある。
    これを縁尋機妙という。また、いい人に交わっていると良い結果に恵まれる。
    これを多逢聖因という。人間はできるだけいい機会、いい場所、いい人、いい書物に会うことを考えなければならない。
  • 器量が大きそうに見える人で、ときどき「断」を欠く人物がある。人物は見識と勇気をもってよく断じなければ実行が立たない。特に悪を除くのに対して、気が弱く、同情心などからぐずぐずしていると、大罪悪を犯すことになる。この同情心、甘やかす心を慈心とし、これに対する大きな天地化育の心を仁心とし、仁心によってよく断ずることができる。
  • およそ人間が唯物的享楽的に堕落してくると、必然、精神的には敬虔を失い、破廉恥になり、あらゆる神聖なるものの意義を疑い、人生の厳粛なる事実に軽薄厭うべき批評、否嘲笑を放つものである。
  • 現代人の一般的欠陥は、あまりに雑書を読み、雑学になって、愛読書、座右の書、私淑する人などを持たない。一様に雑駁・横着になっている。自由だ、民主だということを誤解して、己をもって足れりとして、人から学ぼうとしない。これは大成するのに、もっとも禁物であります。
  • いかに死すべきかということは唯、死を願う消極的な心ではない。いうまでもなく、ある偉大な感激の対象を求めて、それに向って没我的になって行く。己を忘れ、あるいは己をなげうつべきある偉大なる感激の対象を得る生活であります。我々が喜んで、勇んで、己を忘れて没入して行くような、そういう感激の対象を得ることを、大和言葉では「むすび(産霊)」という。
  • 海老は永遠の若さを象徴しているというので、めでたいものとされる。というのは、あれは生きる限りいつまでも殻を脱ぎ、固まらない。・・・自己の殻、学問の殻、仕事の殻、会社に入れば会社の殻、役所に入れば役人の殻から、なかなか脱けられぬものであります。これが脱けきらぬと、人間も固まってしまう。
  • 人間はできるだけ早くから、良き師、良き友を持ち、良き書を読み、ひそかに自ら省み、自ら修めることである。人生は心がけと努力次第である。
  • 人間は俗生活をしておればおるほど、その中に俗に動ぜざるもの、俗に汚れざるものがなければならない。それで初めて俗を楽しむことができる。
  • 理想精神を養い、信ずるところに従って生きようとしても、なかなか人は理解してくれないし、いわゆる下流だの凡庸だのという連中は往々にして反感を持ったり、軽蔑したりする。そういう環境の抵抗に対して、人間が出来ていないと、情けないほど自主性・自立性がなくなって、外の力に支配される。けれども本当に学び、自ら修めれば、そして自らに反って、立つところ、養うところがあると、初めてそれを克服していくことができる。
  • 「自得」という事は自ら得る、自分で自分をつかむということだ。人間は自得から出発しなければならない。金が欲しいとか、地位が欲しいとか、そういうのはおよそ枝葉末節だ。根本的・本質的にいえば、人間はまず自己を得なければいけない。本当の自分というものをつかまなければならない。ところが人間いろんなものを失うが、何が一番失いやすいかというと自己である。人は根本において自分をつかんでいない。空虚である。そこからあらゆる間違いが起こる。人間まず根本的に自ら自己を徹見する、把握する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の根本問題である。
  • 身心摂養法の第一着手は心を養うことです。心を養うには「無欲」が一番善いと古人が教えております。これを誤って我々が何も欲しないことと解しては、とんでもないことです。それならば死んでしまうのが一番手っ取り早い。
    ぼけてしまうのも好いことになる。そういうことを無心とか無欲とかというのではない。それは我々の精神が向上の一路を精進する純一無雑の状態をいうので、平たく言えばつまらぬことに気を散らさぬことです。
  • 器量は多くの人間を包容できることだが、これもただできるだけでは駄目で、それをちゃんと是非善悪を見分けて使いこなしてはじめて本当の器量と言えるので、それのできる人を大器量人というわけである。
  • 老子のいわゆる「老子三宝の章」という有名な一章があります。・・・
     我に三宝あり。第一に慈。第二に倹。第三に人を先にやる。世間の人間は先
    頭になろうとして争うが、そういうことをしない。慈愛があるから勇気が出
    る。倹、つまりくだらぬ私心私欲に関心がないから心が広い。愚人俗人と競
    争などしないから自然に大物になる。
  • 学は己の為にす。己を修むるには安心立命を旨とす。志は経世済民に存す。志を遂ぐるは学による。学によって徳を成し材を達す。「成徳達材」を立命とす。

安岡正篤(『いかに生くべきか』)

三才説:理想は天、現実は地、実現は人
天地人三才を一貫する者、すなわち理想を空想たらしめずして熱烈に欣求し、しかも確固として現実に立脚しつつ、着々理想の実現に努力する真剣の生活者を王という。王の「三」は天地人の三才を表し、真中の「|」は一貫実現を示すものと『説文』にも説いている。

  • 人格の涵養が浅薄な時は、到底深い人格的生命に共鳴することができない。
    …英雄でなければ英雄を知りこともできない道理である。そこで人を識るということは畢竟我が心の内に探知することであって、我れみずから修養学問のないところに、人を知り人を用うることの行われるわけはない。

安岡正篤(『シン吟後を読む』)

  • 人間も木と同じで、内面的生活の充実を忘れて徒に煩雑な外面の現象にとらえられておると、だんだん生命力が減退してくる。だがら生命力を強くするには常に内に返らねばなりません。内に返って己に徹し個に徹するほど力が出てくるのであります=原子力。時代や天下・国家を動かすのも結局はそういう個に徹した偉大な個人の力に待たなければなりません。徒にこれを大衆に求めてもだめであります。大衆は実用価値はあるけれども根源的・創造的価値はありません。
  • 気は盛んなるを忌み、心は満つるを忌み、才は露はるるを忌む。
    「気は盛んなるを忌み」の気は客気といって、元気とは違います。安岡先生は、気力が人物のエネルギーの根源であるということを申されていましたが、真の元気とは宇宙生成発展のエネルギーが人間に体現されたものです。・・・
    一方、客気というのは、気が変わりやすい。毎日気分に左右される。それを忌むということです。「心は満つるを忌み」とは、慢心はよくないという意味です。慢心で事を行えば必ず失敗します。思い上がり、慢心は衰退の兆しといっていいと思います。「才は露はるるを忌む」とは、才能は外に表さないで、隠されているほういいという意味です。
  • 個の力の根源をなす核=学問、道徳、民族的信念
  • 心花静裡に開く。

安岡正篤(『人物を修める』)

  • 道徳
    宇宙生成の本質であり、天地人を貫くところの創造・変化、いわゆる造化の本質原理であるところの「道」が、人間を通して現れたものを「徳」という。この「道」と「徳」を結んだものが道徳である。徳は人間の営む社会活動を通して現れるので、それは経済、政治、教育などの社会活動になる。
  • 人の人たるゆえんは、実に「道徳」を持っているということです。そしてそれは「敬」する心と「恥」ずる心になって現れる。
  • 子供の愛の対象・・母 子供の敬の対象・・父
    人間には、愛と敬の両方の心が必要。
  • 人間は敬する心を知ると、自ら恥ずることを知るようになり、そこからつつしむ、いましめる、おそれる、修める、といった心理が発達する。
  • 宇宙、人生の創造、変化、限りない営みをつきつめてゆくと、最後には根本原理に行き着きます。天地、自然の創造、変化というものは、樹木を見てもわかるように、無限の可能性、創造力を含蓄していて、その創造・変化を可能ならしめているのが生の活動力であります。それは何らかの形で外に発現すると同時に、四方に分脈し発生して、進展してゆくのです。このような分化・発展してゆく力を「陽」といいます。ところが、創造というものは陽だけでは成り立たないのです。それは分化すると末梢化して、生命が薄れるからです。分化・発展は混乱になり、破滅になる。そこで一方において分かれるものを統一し、それを根元に含蓄しようとする働きがある。その働きを「陰」といいます。この陰と陽が相まって初めて健全な創造が行われるのであります。
  • 骨力が練れてくると、剛が柔になる。
  • 人物の第一条件は気力、活力。第二条件は理想を持つこと。そして理想に照らして現実の反省、批判、取捨選択、それが見識。あれもいい、これもいいじゃない。これもいいけど何を捨てるかということ。それから先は実行ということになるが、そこに抵抗障害がある。そこに胆識が出てくる。
  • 元気が骨力となり、気力となって、次第に精神的に発達しくると、自から生きんとする目標・目的を持つようになる。これを「志」「志気」という。人間は幾つになっても、理想・目標・志を常に高く持って失わないというのでなければ、本当の人物とは言えません。そして志ができると、その志に照らして物を考える、かえりみる、という作用が発達する。これを「反省」という。反省が生まれると、そこに義と利を分かち、単なる利、例えば知能があるというようなことに飽き足らなくなる。そして「われ何を為すべきか」「いかに為すべきか」「為すべからざるか」という識別・分別、すなわち「義理の弁」が明らかになる。義理の弁が明らかになると、知識が知識でなくなって、すなわち単なる知識ではなく理想精神・創造力からみる「見識」が生まれてくる。見識は知識のように補うことも人から借りることもできない。本当の意味の修養をしなければ得られない。したがって、人物というのは見識がなければならないのである。ところが、いかに見識が立っても、それを現実に実行するとなると容易ではない。いろいろの利害・矛盾、また、そこから発生する議論等の中にあって、どうしても実践しなければならぬという決断力・実行力がいります。見識にこの決断力・実行力の伴ったものを「胆識」といいます。
  • 本当の学問というものは、血となって身体中を循環し、人体・人格をつくる。したがって、それを怠れば自から面相・言語も卑しくなってくる。
  • 第一級の人物に必要なものは、機鋒を養うこと。機鋒というのは、ある瞬間において大きな展開をする力。それを養うには、すぐれた人物に会い、すぐれた人物の伝記を読んで活用すること。
  • 一燈照隅
    自分の存在がいかに小さくささやかであっても、一燈となって一隅を照らしていく。そうすればやがてそれが百、千、万と集まれば万燈編照、あまねく社会を照らし、国を照らすことになる。