佐藤一斎(『一日一言』)
佐藤一斎(1772年~1859年)とは徳川幕府唯一の大学である昌平坂学問所を統括した儒学者で、今でいえば、東京大学総長に匹敵する人である。
門弟は3千人といわれ、幕末維新の英雄、吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与えた。主著の『言志四禄』は、42歳から82歳のおよそ40年にわたって書かれた4つの随想禄で、1133条からなり、その内容は学問、思想、人生観など多岐にわたった語録の名著である。西郷隆盛は島流しにされた沖永良部島の牢獄の中で、この『言志四禄』を読み、その中から101項目を書き出し、座右の書として、修養の糧とした。
- 面は冷ならんことを欲し、背はダンならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す。
頭が冷静であれば、判断に誤りがない。背中が暖かければ、人を感化し動かすことができる。心にわだかまりなく、さっぱりしていれば、人を寛大に受け入れることができる。腹が据わっていれば、何があっても動じることはない。 - わずかに誇伐の念頭有らば、すなわち天地と相似ず。
少しでも誇り高ぶる気持ちがあれば、それは天地の道理と離反することになる。(誇伐・・誇り高ぶる) - 真に大志ある者は、よく小物を勤め、真に遠慮あるものは、細事をゆるがせにせず。
真に大志を抱く者は、小さな事柄でも一所懸命に勤め、また真に遠大なる考えを抱いている者は、些細な事柄もゆるがせにしない。 - 一芸の士は、皆語るべし。
一芸に秀でた人物であれば、共にその道について語り合い、理解し合うことができる。 - およそ人と語るには、すべからくかれをして其の長ずる所を説かしむべし。我において益有り。
人と語るときは、その人の長所を話させるがよい。そうすれば、それが自分のためになる。 - 己を治むると人を治むると、ただこれ一套事のみ。
自らあざむくと人をあざむくと、またただこれ一套事のみ。
套事・・・物の重なること - およそ人を諫めんと欲するには、ただ一団の誠意、言に溢るること有るのみ。
いやしくも一フンシツの心を挟まば、諫めは決して入らず。
フンシツ・・怒りや憎しみの気持ち - 聡明にして重厚、威厳にして謙沖。人の上たる者はまさにかくの如くなるべし。
道理に通じ、どっしりと落ち着いている。また態度には威厳があり、それでいて謙虚である。人の上に立つ者はこのようにあるべきである。 - 已む得ざるに薄りて、しかる後にこれを外に発する者は花なり
やむにやまれぬぎりぎりの状態になって、初めて蕾を破って外に咲き現れてくるのが花である。 - 士はまさに己れに在る者を恃むべし。動天驚地極大の事業も、またすべて一己より締造す。
立派な男子たる者は、他人を頼るのではなく、自分自身が持っているものを頼りにするべきである。天地を揺るがすような大事業も、すべて自分が応対し、造り出すべきものだからである。 - 已むべからずの勢いに動けば、すなわち動いてくくられず。まくべからざるの途をふめば、すなわちふんで危うからず。
やむにやまれない勢いで活動するならば、邪魔立てされることなく自由に動ける。曲げようのない正しい道を進むならば、何も危険なことはない。 - 急迫は事を敗り、ネイテイは事を成す。
ネイテイ・・・落ち着いて耐える
何事も切羽詰って慌てて行おうとすると失敗するものである。我慢してじっくり取り組んでいけばうまくいくものである。 - 胸臆虚明なれば、神光四発す。
心の内にわだかまりがなく明瞭であれば、心の霊妙な働きが四方に輝きだすものである。 - およそ事を作すには、当に人を尽くして天に聴すべし
人が事をなすには、できる限りのことをすべてして後は天にまかすべきである。 - 知行は一の思うの字に帰す。
知恵も行いも、「思う」の一字に帰着する - 春風を以って人に接し、秋霜を以って自らつつしむ。
春の風のような穏やかな態度で人に接し、秋の霜のような厳しい態度で自らを律していく。 - 真の功名は、道徳心すなわちこれなり。真の利害は、義理すなわちこれなり。
真の功績とか名誉というのは、道徳を実践した結果、自然に得られるものである。本当の利害というのは、義理を行うか行わないかによって得られるものである。 - 理到るの言は、人服せざるを得ず。然れどもその言に激する所有ればすなわち服せず。挟む所有ればすなわち服せず。便ずる所有ればすなわち服せず。凡そ理到って人服せざれば、君子必ず自ら反りみる。我れまず服して、しかる後に人これに服す。
道理の行き届いた言葉には、誰でも服従しないわけには行かない。しかしながら、その言葉に激しいところがあると、聞く人は服従しない。強制するところがあると、服従しない。私心を挟んでいると、服従しない。自分の便利のために言っているのであれば、服従しない。
およそ道理が行き届いているのに人が服従しない場合には、君子たる者、必ず自ら立ち返って反省をする。まず自分が自分の行為に十分に従うことができて、しかるのちに人はそれに服従してくれるものである。 - 好みて、大言を為す者有り。その人必ず小量なり。好みて、壮語を為す者有り。その人必ず怯だなり。ただ言語の大ならず壮ならず、うちに含蓄有る者、多くはこれ識量弘かいの人物なり。
怯だ・・・臆病者 壮語・・・つよがり
世の中には好んで大きなことを言う者がいる。そういう人は必ずと言っていいほど度量が小さい。世の中には好んで元気のいいことを言う者がいる。そういう人は必ずと言っていいほど、臆病者である。ただ、口にする言葉が大きくもなく、元気がいいわけでもないが、それでいて深みが感じられるような人は、たいてい見識が高く器量の大きい人物である。 - 人の受くる所の気は、その厚薄の分数、大抵あいにたり。・・・
独り心の知恵に至りては、以って学んで之を変化すべし。故に博学・審問・慎思・明弁・篤行、人之れを一たびすれば、己れ之れを百たび千たびす。果たして之の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明に、柔なりと雖も必ず強く、以って漸く非常の域に進むべし。蓋し之の理有り。
人が天から受けるところの気は、その厚いと薄いとに分け与えられている分量はだいたい同じようなものである。・・しかし、心の賢さや愚かさについては、学問によって変えることができるのである。ゆえに『中庸』に「博く学び、審らかに問い、慎んで思い、明らかに弁別し、誠実に実行する。人がこれを一回するなら自分は百回行い、人がこれを十回するなら自分は千回行う。果たしてこの方法を実行すれば、愚者であっても賢者になり、柔弱な者であっても必ず強くなる」とあるように、こうした方法を励行すれば、少しずつでも非凡の域に近づくことができる。誠にこれは道理に適っているといえる。 - 閑想客感は、志の立たざるに由る。一志既に立てば、百邪退聴せん。これを清泉湧出すれば、旁水の渾入するを得ざるに譬う。
無駄な想念を抱いたり、外物に心が囚われてふる回されてしまうのは、しっかりとした志が立っていないからである。一つの志がしっかり確立していれば、多くの邪念は退散し服従するものである。これを譬えるならば、清らかな泉が湧き出ているところに、その傍らを流れる水が入り混じることができないようなものである。
閑想・・・暇にまかせて考えること 客感・・・外界によっておこる感情
退聴・・・服従する - 箴は鍼なり。心の鍼なり。非幾わずかに動けず、すなわちこれを箴すれば可なり。増長するに到りては、則ち効を得ることあるいは少し。
箴言は、心に刺す鍼のようなものである。わずかにでも心に不善のきざしが生じたときには、箴言の鍼を打ち込めばよい。不善の心が大きくなってしまってからでは、効果は少ないだろう。 - 君子は自らけんし、小人はすなわち自ら欺く。君子は自ら彊め、小人はすなわち自ら棄つ。上達と下達とは一つの自字に落在す。
立派な君子は自分の行為に満足しないが、つまらない小人は自らを偽って自分の行為に満足する。君子は自ら励み勉めて向上しようとするが、小人は本心をないがしろにして自暴自棄になる。向上するか堕落するかは、ただ「自」の一字に落ち着くのである。 - 君子にして不才無能なる者これ有り。なお以って社稷を鎮むべし。小人にして多才多芸なる者これ有り。まさに以って人の国を乱るに足る。
徳のある立派な君子でありながら、才能のない人がいる。それでもなお国家を鎮めることができる。人格の劣る小人なのに、多芸多才な人がいる。そのよな人は国を乱すだけである。 - 心に中和を得れば、則ち人情皆順い、心に中和を失えば、則ち人情皆そむく。感応の機は我に在り。故に人我一体、情理通透して、以て政に従うべし。
心が平静で偏らず節度を保っていれば、人の感情はみな自分に従ってくるが、心に中和を失えば、人の感情はみな自分から離れていく、人々が感応するきっかけは自身の中にあり、人と我の心が一つになり、人情と道理が通じて、初めて政治を執ることができるのである。 - 能く人の言を受くる者にして、しかる後にともに一言すべし。人の言を受けざる者と言うは、ただに言を失うのみならず、まさに以てとがめを招かん。益無きなり。
よく人の言葉を受け入れる者であれば、初めてその人と言葉を交わしてもよい。人の言葉を受け入れない者と言葉を交わせば、ただ言葉を無駄にするだけでなく、かえってそれによって言葉の過ちを招くことになる。まったく益のないことである。 - 実言は、「すうじょう」の「ろう」と雖も、以て物を動かすに足る。虚言は、能弁の士と雖も、人を感ずるに足らず。
「すうじょう」・・草刈ときこり 「ろう」・・身分の低い人
真実の言葉は、身分の低い言葉であっても、よく人を感動させる。偽りの言葉は、弁論の達人の言葉であっても、人を感動させることはできないものである。 - 事を処するに平心易気なれば、人自ら服し、わずかに気に動けばすなわち服せず。
物事を処理するときに、心が穏やかで落ち着いていれば、人は自然に服従するものである。しかし、わずかでも私心を挟むような気分に左右されるところがあると、承服するものではない。 - 道理は弁明せざるべからず。しかれどもあるいは声色を動かせば、すなわち器の小なるを見る。
物事の道理は、はっきり弁明して明らかにしなければいけない。しかし、そのために大声を上げたり顔色を変えたりするのは、器の小ささを露呈することになる。 - 一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只だ一燈を頼め。
手元に一つの提灯をささげて暗い夜道を行くならば、暗夜を心配することはない。ただその一つの提灯を頼りに前進すればいいのだ。
〈注〉釈尊はその死期に際して「自ら燈明となれ、法(真理)を燈明とせよ」と弟子の阿難に教えている。 - 少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。
少年の時に学んでおけば、壮年になって役に立ち、何事かをなすことができる。壮年のときに学んでおけば、老いても気力の衰えることがない。
老年になって学んでおけば、若い者を指導することができ、死んでからもその名が朽ちることはない。 - 父の道はまさに厳中に慈を存すべし。母の道はまさに慈中に厳を存すべし。
父たる者は、厳しさの中に慈愛がなくてはいけない。母たる者は、慈愛のうちに厳しさがなくてはいけない。 - 我が言語は、吾が耳自ら聴くべし。我が挙動は、吾が目自ら視るべし、視聴既に心に愧じざれば、則ち人もまた必ず服せん。
自分の言葉は自分の耳で聴くがいい。自分の立居振舞いは自分の目で見る - 責善の言は、もっとも宜しく遜以ってこれを出すべし。ジョトウすることなかれ。カンドウすることなかれ。
善行を行うように勧める言葉は、なるべくへりくだって言うべきである。回りくどく話してはいけない。わめき騒ぎ立てるように言うものではない。
ジョトウ・・多弁・饒舌 カンドウ・・さわがしい - 人才には、小大有り、敏鈍有り。敏大は固より用うべきなり。ただ日間の瑣事は、小鈍の者かえってよく用を成す。敏大の如きは、すなわち常故を軽蔑す。これ知る、人才各々用処有り、概棄すべきに非ざるを。
人の才能には、小あり大あり、敏い人もいれば鈍い人もいる。敏捷で才能が大きな者は、もちろん用いるべきである。ただ、日常の細かなことは、鈍くて小さな才の者のほうが、かえってよく役に立つものである。敏捷で大きな才能があると、日常の当たり前のことを軽蔑してしまうところがあるからである。 - 吾れ静座して以って気を養い、動行して以って体を養い、気体相資し、以ってこの生を養わんと欲す。
私は静座によって精神を修養し、運動によって身体を養い育て、精神と身体が互いに助け合って、この生命を養おうとしている。 - 静坐して数刻の後、人に接するに、自ら言語の叙有るを覚ゆ。
静坐してから数時間後に、人と面会すると、自然に話す言葉に道筋が立っていることに気づく。 - 学を為すの効は、気質を変化するに在り。その功は立志に外ならず。
学問をなす効能は、人の気質を善く変化させるところにある。そして、それを実践するのは立志に外ならない。 - 経書を読むは、すなわち我が心を読むなり。認めて外物となすことなかれ。
我が心を読むは、すなわち天を読むなり。認めて人心となすことなかれ。
聖賢の書を読むことは、すなわち自分の本心を読むことである。したがって、自分の外にあるものを読んでいると見なしてはいけない。自分の本心を読むというのは、すなわち天地自然の真理を読むことである。したがって、本心を私心というように理解してはいけない。 - 心を養うにはいかんせん。理義の外に別方無きのみ。
心を養うにはどうすればいいのか。物の道理に心を照らしてみるより外に別の方法はない。 - 悔の字は、これ善悪街道の文字なり。君子は悔いて以って善に遷り、小人は悔いて以って悪を逐う。
悔という字は善と悪の分岐点となる文字である。立派な人物は悔いて善のほうへと移っていくが、つまらない人物は悔いてやけになり、かえって悪を追うようになる。 - 英気はこれ天地清英の気なり。聖人はこれを内につつみて、あえてこれを外に露わさず。賢者はすなわち時時これを露わし、自余の豪傑の士は全然これを露わす。もしそれ絶えてこの気無き者をば、鄙夫小人と為す。碌碌として算うるに足らざる者のみ。
すぐれた志気は、天地の間のすぐれた気である。聖人はこのすぐれた気を内に包み隠して、あえて外に表さない。賢者はこれを時に応じて表し、それ以外の豪傑の士はこれを全て露にする。もし全くこの気がない者は卑小な人物であって、凡庸で数えるに足りない者である。 - 人はすべからく忙裏に間を占め、苦中に楽を存するの工夫をつくべし。
人は忙しい中にも心を落ち着け、苦しみの中にも楽しみを見つける工夫をすることが大切である。
〈注〉安岡正篤師の「六中観」には、「死中・活有り。苦中・楽有り。忙中・閑有り。壺中・天有り。意中・人有り。腹中・書有り」とある。 - 自ら欺かず。之を天に事うという。
自分自身を偽るようなことはしない。これを天につかえるというのである。 - 我れ自ら感じて、しかる後に人これに感ず。
まず自分が感動して、その後に人を感動させることができるのである。自分が感動しないで、他人を感動させることなどできるはずがない。 - 凡そ事予すれば則ち立ち、予さざれば則ち廃す。(「中庸」中国古典)
何事も事前に準備をすれば必ず成就し、準備を怠れば必ず失敗する。 - 女子を訓うるは、宜しく恕にして厳なるべし。小人を訓うるは、宜しく厳にして恕なるべし。
婦女子を教え戒めるときは、思いやりの言葉を先にかけて、そののち厳しい言葉をかけるようにすればよい。小人物を教え戒めるときは、最初に厳しい言葉をかけて、そののち思いやりの言葉をかけるようにするがよい。 - 少壮の書生と語る時、しきりに警戒を加うればすなわち聴く者厭う。ただ平常の話中に就きて、偶々警戒を寓すれば、すなわち彼において益有り。我れもまた煩トクに至らず。
若い学生と語るとき、しきりに戒めるようなことを言うと、聞く者は嫌になるものだ。ただ、会話中に話題にかこつけて戒めの言葉を入れるようにすれば、聞く彼にとっても聞きやすく有益である。自分もまた、煩わしい手数をかける必要がない。 - 小児を訓うるには、苦口を要せず。ただすべからく欺くなかれの二字を以ってすべし。これを緊要と為す。
子供を教え戒めるときには、苦言は必要としない。ただ、人に嘘をついてはいけない、とだけ言えばよい。これが肝心な点である。 - 必ずしも福を求めず。禍無きを以て福と為す。必ずしも栄を希わず。辱無きを以て栄と為す。
必ずしも幸福を求めなくてもよい。禍がなければ幸福なのである。必ずしも栄誉を願わなくてもよい。恥辱を受けなければ栄誉なのである。 - 有りて無き者は人なり。無くして有る者もまた人なり。
たくさん人はいるけれど、いないのは立派な人物である。しかし、いないようでいるのもまた立派な人物で、それを見出すことが大切である。 - 人の言を聴くことは、すなわち多きを厭わず。賢不肖と無く、皆資益有り。
自ら言うことは、すなわち多きことなかれ。多ければすなわち口過有り。又あるいは人を誤る。
人の言葉を聴くことは、いくら多くても嫌がらないことだ。話し手が賢者であれ愚者であれ、すべて自分のためになる。しかし、自分が話をするときには、多くを語ってはいけない。多くを語れば失言をしたり、人を誤らせたりすることになる。 - 教えて之を化するは、化、及び難きなり。化して之を教うるは、教、入り易きなり。
まず教えてから感化しようとしても、感化するのはなかなか難しい。しかし、最初に感化してから教えるようにすると、容易に教え込むことができる。 - 郡小人を役して以て大業を興す者は、英主なり。衆君子を舎てて而して一身を亡ぼす者は、闇君なり。
多くの平凡な人間を使って大事業を興す者は、英明な君主である。多くの立派な人物を捨てて用いずに自らの身を亡ぼした者は、暗愚な君主である。 - 毀誉得喪は、真にこれ人生の雲霧なり。人をして昏迷せしむ。この雲霧を一掃すれば、則ち天青く日白し。
非難、名誉、成功、失敗は、まさに人生にかかった雲や霧のようなものである。これらが人の心を暗くし迷わせるのである。この雲や霧を一掃すれば、よく晴れ渡った日のように人生は明るいものになる。 - 口舌をもって諭す者は、人従うことを肯ぜず、躬行をもって率いる者は、人効うてこれに従う。道徳をもって化する者は、則ち人自然に服従して痕跡を見ず。
口先で諭そうとしても、人は決して服しない。自ら実践すれば、人はならってついてくる。さらに道徳をもって感化するなら、人は自然に服従する。 - 人、或いは性迫切にして事を担当するを好む者有り。之を駆使するはかえって難し。迫切なる者は多くは執拗なリ。全きを挙げて以って之に委ぬ可からず。宜しく半を割きて以って之に任ずべし。
人には、性格がせっかちであって、そのうえ何事でも自分で引き受けてやることが好きな人がいる。このような人を使うのは、かえって難しい。
せっかちな人はたいてい片意地な人であるから、仕事を全部任すことはできない。半分ほどまかしておくがよい。