神の正体

エジプトに、「神の世界」の神都や宮殿を再現するという思想がある

ところで、香代子先生の預かった「神の救いの計画」によると、最高神の「住まい」を、「約束の地」に再現するという計画だった。
この、「神の世界」や最高神の「住まい」を地上に再現するという考え方も、72神と同じように、エジプトをはじめ、道教やカバラや仏教の思想に残されている。
まず、エジプトから見ていこう。
エジプトには、『ピラミッドテキスト』(BC2300年頃)と呼ばれるものがある。それは、古王国末期の第5王朝のウナス王のときから、ピラミッドに刻まれた文章で、古代エジプトの葬礼文書の一つとされている。
この『ピラミッドテキスト』には、「王は天界を統一し、王の力は南と北の地と、以前いた神々に及ぶ。王は正しいやり方で神の都を建設した」と記されている。このように、古代のエジプトでは、天と地を和合させ、住人に恩恵を与える都市を建設するのは、王の神聖な義務と考えられていた。また、神の都、天上の都、太陽の都など呼び名は様々だが、いわゆる「天上の都市」を、地上に建設するという思想があった(『タリズマン 秘められた知識の系譜』上 グラハム・ハンコック ロバート・ボーヴァル 大地舜訳 竹書房)。

道教にも、「神々の世界」の神都や宮殿を再現するという思想がある

次は、道教を見てみよう。
それは、例えば「崑崙」である。
『道教事典』(平河出版社)によると、崑崙とは「中国の神話伝説上の神々の集う空想上の霊山でもあり、実在の山脈の名前でもある」と記されている。
崑崙は神々の集う場所だから、それは「神の世界」を象徴していることになる。この崑崙は3層構造になっているが、先生の体験した「神の世界」も「天上界」「地天界」「三界」の3つの世界がある。
ちなみに、3つの「神の世界」のことは、紀元前12世紀に現在の形に編集されたと考えられている『リグ・ヴェーダ』にも示されている。それによると、宇宙は諸神・霊力の活躍の場であり、それは「天界」と「地界」およびその間にある「空界」によると考えられていた。(『仏教・インド思想事典』監修 早島鏡正 編集代表 高崎直道 春秋社)
いずれにせよ、崑崙は「神の世界」を象徴している。
ところで、前漢の武帝の頃に編集された『淮南子』という思想書によると、崑崙山を高く登りつめるものは、その高みに応じて不死→霊→神へと絶対者に近い力をつけていくことができ、登りきるとそこには太帝つまり天帝の居所に至るというのである。(『道教事典』平河出版社より)
中国六朝時代に成立した道教の教典『老子中経』では、天帝の居所、すなわち天上世界の宮殿を「天宮」と呼び、この天宮には「神仙」になったものしか行けないと考えられていた。神仙とは神界と人間界を自由に行き来できるものをいう。(『日本の道教遺跡』福永光司、千田稔、高橋徹著 朝日新聞社より)
今見たように、「崑崙山を高く登りつめるものは、その高みに応じて不死→霊→神へと絶対者に近い力をつけていくことができる」というが、このことは、「神の世界」への探訪と神々との接触が深まるにつれて、不死の力、すなわち神の力を身につけることができることだと、私は考えている。というのも、先生は多くの神々との接触を通して、神の妙法(力)を身につけられたからである。
それはともかく、注目して欲しいのは、「登りきるとそこには太帝つまり天帝の居所に至る」というところだ。
実は、先生の他にも、「神の世界」を体験している人が何人かいる。その修業の最初の目標が、「神の世界」の最高神(大神)と出会うことなのだ。最高神(大神)と出会った人から教えられたことだが、大神と出会うためには、まず大神の「宮殿」にたどり着かなければならないらしい。
これが、なかなかの難関なのだ!?
だから、神さまの修行をされる方は、まず大神の「宮殿」にたどり着き、大神と出会うことを一つの目標にしている。これは「第一段階」と位置づけられ、この目標を達成した人には、先生から認可証が授与されることになっている。
私の目の前で繰りひろげられている、信じられないような特別な体験と同じことが、道教の教典にも記されているのである。
それはともかく、道教にも、崑崙(神々の世界)にある「天宮」、すなわち最高神の「住まい」のことが記されている。
ところで、先の『道教事典』(平河出版社)の「崑崙」の説明の同じところに、
「崑崙山は、天帝の天上の都の真下にある地上の都」と記されているが、古代の中国には「天都憧憬思想」といってもいいような思想があった。
それは、天都すなわち「神の世界」の都への憧れである。その証拠に、秦の始皇帝や漢の武帝も、天上の都をモデルに、それを地上に再現しようとした。
実はそれが、都城制の基本原理となったのである。(『道教と日本の宮都』高橋徹著 人文書院)
このように、「神の世界」を地上に再現するという思想が、道教にもある。

仏教にも、「神々の世界」の神都や宮殿を再現するという思想がある

次は、仏教を見てみよう。
道教の「崑崙」は、仏教では「須弥山」と呼ばれる。
須弥山は宇宙の中心の山で、崑崙と同じように、地輪、水輪、風輪という3層構造になっている。この須弥山も「神の世界」を象徴しているが、頂上には帝釈天の宮殿があると考えられているのである。
ここにも、神の「住まい」(帝釈天の宮殿)のことが記されている。

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須弥山のイラスト

ちなみに、帝釈天はバラモン教・ヒンズー教のインドラ神が、仏教に取り入れられたものである。インドラ神は阿修羅と戦闘した武神だったが、仏教に取り入れられて帝釈天となってからは、釈迦を助け、その説法を聴聞したことになっている。ことから、梵天と並んで仏教の二大護法善神となった。(ウィキペディアより)
先に、先生が甦らせた大神は仏教では梵天だと言ったが、梵天と帝釈天は一対で祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。もしかしたら、帝釈天と梵天は、同じ神と認識されていたのかもしれない。
いずれにせよ、仏教にも、神の「住まい」のことが記されている。

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帝釈天(左)と梵天(右)

カバラにも、「神の世界」の神都や宮殿を再現するという思想がある

次は、カバラを見てみよう。
カバラの聖典「ゾハルの書」には、「宮殿」と並んで、「始まり」「エロヒム」(神)といったキーワードが記されている。
「ゾハルの書」とは、スペインのラビ・モミュ・デ・レオン(1250年頃~1305年)が、カバラ神秘主義のあらゆる伝承を吸収して、それらを大傑作にしたといわれるカバラの聖典である。

『光輝の書』序章
「…このように、[始まり]に(含まれた)神秘的で知られざるものが宮殿を形づくる。この宮殿はエロヒム(神)と呼ばれる。そして(宮殿における)教義にはつぎの言葉が含まれている。『はじめに神(エロヒム)によって(すべて)は創造された』…」
(『カバラーユダヤ神秘思想の系譜』箱崎総一著 青土社より)

難しい表現だが、「始まりの時に、宮殿が形づくることは、神によってすべてが創造されたことを象徴する」といった意味になると思う。
何度もいうが、最高神の「住まい」を「約束の地」に再現することは、単に神宮を再建するというような意味ではなく、地上を神々の住まいにするという「神の計画」を象徴しているのだ。
問題は、この「神の計画」が発動される時だが、それは、世界の「終わりと『始まり』」の時である。
このようにカバラの聖典にも、「宮殿を形づくる」ことが「始まりの時」や「神の創造」を象徴するように書かれている。
ここに記されたことは、先生が預かった「神の救いの計画」を知らないと、それこそチンプンカンで、何のことやらさっぱりわからないが、その計画の内容を知ると、意味することがすんなり理解できる。
いずれにせよ、カバラの伝統的な考え方、言い換えれば、神から受け取った伝統的な教えは、先生が預かった「神の救いの計画」と瓜二つである。