神の正体

「北斗七星図形」は、「鎮宅霊符神」がメイド・イン・ジャパンであることを示している!

私はこのような専門家の見解に触れ、地球規模の天変地異の時に、世界を建て直すために日本から派遣された人々が携えた教えが、中国で道教という形に変化していったという、先の考えに傾いていった。
その後、このことを示す証拠を発見した。
ふと立ち寄った書店で、一冊の本を手に取った。それは『日本超古代遺跡の謎』(鈴木旭著 日本文芸社)という本である。この本には、「[日本のピラミッド]が明かす世界文明発祥の謎」というサブタイトルがついていたが、このタイトルが示すように、日本各地のピラミッドや縄文遺跡を紹介し、世界の文明の発祥が日本であることを論じたものである。
その中で、古代史研究家の佐藤有文氏の発見された、東北地方の縄文遺跡が紹介されていた。その遺跡に対する鈴木氏のコメントに、「やっぱり、神さまの言われることに間違いはない!神々は日本を集合場所にしたのだ!」と興奮したのを、今でも覚えている。
それが、次の図の「北斗七星図形」である。

この北斗七星は、津軽の地で最も古い、妙見系の神社を地図上に描いたものである。(①大星神社:青森市横内②八幡宮:田舎館浪岡町 ③猿賀神社:弘前市尾上町 ④熊野宮:弘前市 ⑤岩木山神社 ⑥毘沙門天:村市 ⑦毘沙門天:乳井)
今思えば、この「北斗七星図形」への鈴木氏のコメントが、神々の源流を辿るうえでのきっかけになり、その方向性も示してくれた。
少し長くなるが次に示す。

…筆者の独断と偏見を述べてみたいのであるが、それは、太古の昔から津軽の地には「北斗七星信仰」があったことを意味しているのではないだろうか。一般的には、妙見信仰というのは仏教(日蓮宗)に属する宗教であり、最も有名なのは能勢の「妙見さん」(大阪府能勢町)である。その「寺院縁起」によれば、平安時代のころ、領主能勢家が「鎮宅霊符神」を祀ったのが始まりで、慶長年間になって法華経を勧請したのち、妙見菩薩を祀る日蓮宗の寺となったと伝えられる。ここでいう「鎮宅霊符神」というのは中国渡来の道教の神であるが、わざわざ中国から輸入して成立したことになる。しかし、そもそも信仰の対象となる妙見菩薩が、北極星の別名とされる「尊星王」とか、「北辰菩薩」と呼ばれるのはどういうわけなのか。さらに、津軽の地では日蓮宗の寺院ではなく、古来からの神社を中心にして妙見信仰が定着しているのはなぜなのか。
これらの事実をみていくと、どうしても津軽の妙見信仰が一般に流布している妙見信仰より古く、もともとの姿を伝えているものと推定したくなる。もともと、太古の昔から日本では北極星を神格化して信仰する風習があったのではないだろうか。ピラミッドと謎の霊ラインは、北極星ばかりか宇宙世界を崇拝し、観測するためのシステムとして建設され、機能したものではないだろうか。

見ていただいたように、先生が「神の世界」で出会った「鎮宅霊符神」の名前が、そのまま記されている!!
しかも、東北の「北斗七星図形」は、太古から日本に北斗七星信仰があったことを示し、それは道教由来の「鎮宅霊符神」が、メイド・イン・ジャパンであることを示しているというのである。
鈴木氏のコメントに、少し説明を加えよう。
北斗七星信仰で思い出すのは、仏教の妙見信仰である。妙見信仰とは北辰妙見菩薩にたいする信仰をいうが、能勢の「妙見さん」(大阪府能勢町)の寺院縁起にも示されているように、もともとは道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星にたいする信仰なのだ。
要するに、仏教の妙見信仰は、道教の星辰信仰が習合したものなのである。
ちなみに習合とは、異なる教理などを折衷、調和することをいい(広辞苑)、例えば神仏習合とは、土着の信仰と仏教を折衷して、一つの信仰体系として再編成(習合)することを意味する。(ウィキペディア百科事典)
今述べた、鈴木氏の見解を等式にすると次のようになる。
古代日本の北斗七星信仰=道教の星辰信仰=仏教の妙見信仰
問題は古代日本の北斗七星信仰だ。
この北斗七星信仰は、現在、仏教や道教の流れを汲んでいる一般的な妙見信仰(星辰信仰)とは異なり、縄文時代から日本にあったのではないか、と鈴木氏は主張されているわけである。ならば、「鎮宅霊符神」も、メイド・イン・ジャパンである可能性が大いに考えられる!?
ところで、神社の創建は記紀神話と同じ頃だと思われるので、今から約1300年前頃だと思われる。一方、道教は5世紀頃に成立したと考えているので、1500年前頃になる。
このように道教の成立は、神社の創建より古いため、北斗七星の神社の配置は道教の影響だとする見方もある。しかし、神社のなかには、古代の縄文時代の遺跡の上に建てられたものが少なくない。その証拠に、この神社の北斗七星図形と周りの縄文遺跡は、一体で機能していた可能性が高く、おそらく縄文時代の遺跡の上に建てられた神社だと考えられる。
その証拠が、次に示す、九州の北斗七星図形である。

「北斗七星図形」は九州にもあった!

「北斗七星図形」は、東北だけでなく九州でも確認されている。
九州の「北斗七星図形」は、宮崎県南部の霧島火山帯を囲む地域に存在する。発見したのは、宮崎県のイワクラ研究家で、イワクラ学会の谷口実智代さんである。
ある時彼女は、宮崎県南部の、イワクラ(巨石)をご神体とする神社を尋ねたのである。研究というほどの気持ちではなく、イワクラマップにでもなればという軽い気持ちで、地図上に印を付けていった。
するとそこに、見事な北斗七星図形が浮かび上がってきたのだ!
それが次の図である。

この九州の北斗七星図形も神社のよるものだが、これらの神社のご神体はイワクラなのである。イワクラとは石器時代、少なくとも縄文時代の祭祀と何らかの関係のある巨石と考えられている。したがって、この九州の北斗七星図形は明らかに縄文時代のもので、それは道教の影響ではなく、北斗七星を中心とする信仰が、メイド・イン・ジャパンであることを示している。
しかも、今見たように、「北斗七星図形」は東北と九州という、日本列島の北と南に描かれているが、発見されていないだけで、他の地域でも描かれていた可能性も考えられる。だとすれば、縄文時代には、北斗七星信仰が日本全国で行われていたかもしれない。
いずれにせよ、「北斗七星図形」は、道教の教典に記されている「鎮宅霊符神」のルーツが、古代の日本であることを示唆している!!